2022年7月のことば
暑い 熱い 7月を迎えました。
いかがお過ごしですか。
「ご無理ありませんように👋」と、言葉としては言いますが、あなたのご無理(努力・頑張り)のおかげで、世の中が回っているんですよね。
「ありがとうございます。ご無事を念じております」
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2022年7月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら)
めぐりあいのふしぎに
てをあわせよう
坂村真民
不思議なご縁
去る6月、大学の後輩が住職を務めるお寺の永代経法要でお話し(法話)をしてきました。
大学の後輩とはいっても、在学中の交流はなく、卒業後に縁を賜り、今でも同じ師から教えをいただいています。大学を卒業して30年弱。50歳を過ぎても学生時代の友と学びを共にできることの有り難さを感じている今日この頃です。
後輩と私には、更に不思議なご縁があり、後輩の両親と私の曽祖父にもまた、つながりがありました。
後輩の両親が、大谷派のハワイ別院で挙式した際、その司婚を務めたのが、当時ハワイ別院の輪番だった曽祖父でした。後輩のお母さんは、そのときのご縁をご恩といただき、私に会うたびに、当時の様子と感謝の気持ちをお話ししてくださいます。まさか、自分の息子と自分の恩人のひ孫が出会うなんて想像もしていなかったことでしょう。
人と人とは、不思議なご縁のなかを生きているものです。いのちは、教えは、次の代そのまた次の代へとつながっていきます。人間の思い計らいでつなげようとしてつながるものではなく、思い計らいを超えたご縁によって、つながっているものです。
永代経法要が勤まり続けていることの意味を感じながら、ご法話をさせていただきました。南無阿弥陀仏
めぐりあいのふしぎ
不思議なご縁を感じることは、誰しもあることでしょう。
けれど、私たちが想い返す不思議なご縁は、自分自身で認識している出会いだと思うのです。自分で認識していて、「不思議な出会いだなぁ」と感嘆・感動・感謝できるような出会いではないでしょうか。
ここまで「不思議なご縁」について書きましたが、坂村真民さんが表現される「めぐりあいのふしぎ」は、より広がりを持った言葉だと受け止めています。
私は、自分自身で認識していない、出会っていない人ともご縁をいただきながら生きています。
私の口にするもの、私の身につけるものを作っている人びとがいる。私が手に取ることができるところまで運んでいる人がいる。会ったことのない、会うことのない人びとの苦労のおかげで、今、私がいる。そう考えると、私がいることによって、今いられる誰かもいる。ご縁で結ばれているにもかかわらず、面と向かって出会う人は限られています。人間の思い計らい、想像を超えた「めぐりあいのふしぎ」に、私は生きています。そういう感覚、肌感覚や気遣いが希薄になっています。だからこそ「てをあわせよう」という言葉で訴えかけているのかもしれません。
とはいっても、「感謝して手を合わせましょう」と勧めているのではありません(それでは人間の計らいにすぎません)。めぐりあいのふしぎのなかにある私なのだと、教えを聞くことをとおして気付かされるとき、自然に手が合わさります。自然に手が合わさる。そのようなはたらきのことを、仏教では「不思議」と言います。
回向(えこう)
さて、一般的に、「亡くなった方の供養をお願いします」という意味で「ご回向をお願いします」と依頼されることがあります。
「回向」・・・「回り向ける」と書かれています。つまり、生きている側の人間(残された者)が、善い行いをすることによって得るはずのお返し(功徳)を、自分ではなく、亡き人に向けてくださいという発想です。その善い行いとして、お坊さんに読経をしてもらうことや、ご法事を勤めるということが「回向」であると考えられています。
「一般的に、」と書きましたが、浄土真宗の宗祖 親鸞聖人には、自分がしたことを亡き人に向けるという発想はありません。
親鸞聖人は、「和讃」にこのように記されています。
無漸無愧(むざんむき)のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名(みな)なれば
功徳は十方にみちたまう
(「愚禿悲歎述懐和讃」)(試訳)
教えをいただいてある身にも関わらず、その教えに背いている私。
我が身を内省して、恥ずかしい生き方をしていたと愧(は)じる心。
私は、そのような自覚のない身である。
そのような私に、阿弥陀如来の慈悲の心(生きとし生けるものすべてを救いたいという願い)が、向けられています。その慈悲心からのいただきものが、「南無阿弥陀仏」の御名(名号)です。だからこそ、阿弥陀の慈悲心の光明は、十方(世界中)に満ち溢れています。阿弥陀の救いの対象から漏れる者は、誰一人としていないのです。
「南無阿弥陀仏」とお念仏申して功徳をいただくのではありません。めぐりあいのふしぎのなかにある私です。お念仏までもが、既にいただいてあるものでした。阿弥陀より功徳を、回向をいただいているからこそ、無慚無愧である私の手が合わさり、私の口から「南無阿弥陀仏」のお念仏が出てきます。
坂村真民(さかむら・しんみん)
1909~2006 熊本県生まれ
敬愛する一遍上人の生き方に学びながら詩作に励む。
母が口にしていた「念ずれば花ひらく」という言葉を大切に生きられました。
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