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2022年6月 1日 (水)

2022年6月のことば

2022年6月を迎えました。
コロナ、ウクライナ侵攻、値上げラッシュ等々々、報道では重く圧し掛かるニュースの数々々。
報道されている事柄のみならず、お一人おひとりの身にも、圧し掛かっている出来事があることでしょう。
6月1日、今月のことばを見て、「私もただいまくだり坂です」と声をかけてくださった方がいます。なので、「逆を向いたら、のぼり坂ですよ」と応えたら、「そうですね」(^-^)と微笑みながら職場に向かわれました。
毎朝、挨拶や会話を交わす人がいる。それだけで、人生のおいて見えてくる風光は変わってくる。
今月は、どんな風光が見えることだろう。

 🐸 🐸 🐸

2022年6月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら

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くだり坂には
またくだり坂の
風光がある
    榎本栄一

くだり坂の風光

これまでの歩みが打ち消されて、先行きの見えないなかを歩いた道。人々の喧騒の中を歩きながらも、ひとりぼっちでいるような感覚。
自分のしでかした事実が重く圧し掛かり、暗闇の中で流した涙。どれだけ涙を流しても、絶え間なく溢れ出る涙。涙は、こんなにも溢れ出るんだという驚き。

幾星霜を経て、今、私がいる。あの頃の不安も淋しさも、痛みも悲しさも、いつの頃からか記憶の片隅に追いやられている。
けれど、大勢の中に身を置きながらも感じる孤独感。涙は、こんなにも溢れ出るんだという驚き。これらの感覚が、あるときふと思い出される。

経験の記憶は、感情の記憶と共にある。つらい経験をした「くだり坂」の風光は、感情の記憶と共に、私のなかに刻まれている。
苦労や努力を重ねながら、いろいろな風光を眺めて来た。思い返すのもつらかったはずの風光は、今の私を形作った風光でもある。
不安や淋しさ、痛みや悲しみに覆われていた「くだり坂」が、現在(いま)、かつてとは違う風光として蘇ってくる。

「くだり坂」と「のぼり坂」

さて、世界には「くだり坂」と「のぼり坂」、どちらが多くあるかご存知ですか?

正解は、「同じ数」です。
坂は、その人の進む方向によって「くだり坂」にもなるし「のぼり坂」にもなる。「くだり坂」という坂と「のぼり坂」という坂、まったくの別物が、それぞれにあるわけではない。あるのは坂。その坂をくだっているのか、のぼっているのか。それによって呼び方や見方が変わるだけで、坂は坂。だから、考えてもみれば(考えるまでもなく)、「くだり坂」と「のぼり坂」の数は同じ。

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」という諺を想う。
「禍福は、より合わせた縄のようなもので、災いと幸運が表裏転変するのが人生である」(『角川 国語辞典』)ことを意味する。
災いと幸運がより合わさって一本の縄を紡いでいる。ということは、災いの紐と幸運の紐の長さは、同じ長さなのではないだろうか。長さが違うと、より合わせて一本の縄を紡ぐことはできないのだから。

「くだり坂」と「のぼり坂」、その数は同じ。同じ坂道。
人生における「くだり坂」と「のぼり坂」も、同じ坂なのかもしれない。「くだり坂」と「のぼり坂」が別々にあるのではなく、あるのは坂。私がその坂をくだっているのか、のぼっているのか。その違い。

災いと幸運、二本の紐がより合わさって作られた縄。それぞれの紐の長さは同じ。
人生における禍と福も、同じ長さ。つまり生涯を通じて私を形作っている。誰かの苦労のうえに成り立っている私の生活であり、私の苦労がまた誰かの生活を成り立たせている。このように、人生の内実は、禍福がより合わさりながらできている。

ここに僕がいて あなたがいる

朝、山門を出て、北に向かって掃き掃除を始める。落ち葉も吸い殻もすべて掃き集めて、今掃除した道を引き返す。
すると、まだ落ち葉や吸い殻が落ちている。きれいに掃き集めたつもりでも見落としている。しかも、北に向かっているときは気づかなかった、今朝 咲いたばかりの花に、引き返す際に気付くことがある。「あれ、花が咲いてたっけ?」。いったい何を見ていたんだろうと首をかしげたことは、一度や二度ではない。

たった今歩いてきた道を引き返すだけでも、こんなにも風光は変わる。いや、風光が変わったわけではない。私のものの見方、感じ方、ゆとり、心のあり様が変わったんだ。

「くだり坂」と「のぼり坂」が別々にあるのではなく、あるのは坂…と書いた。人生における坂道も、「くだり坂」と「のぼり坂」があるわけではなく、あるのは苦悩を伴う道。そこを私がのぼるのか、くだるのか。どちらに歩んだとしても、歩む方向が変わると風光も、いや、見え方も変わってくる。私のものの見方、感じ方、ゆとり、心のあり様は、日々の生活のなかで刻一刻と変わっている。目に映る風光も、いろいろな姿を見せている。

考えてみれば、「のぼり坂」だって歩くのはきつくてしんどい。「くだり坂」の方が楽に感じることもある。「くだり坂」は、転ばないように慎重に歩かなければだけど。「のぼり坂」には「のぼり坂」の、「くだり坂」には「くだり坂」の風光がある。

同じところに立っていても、私がどこを向くかで風光は変わる。たとえ同じ方向を見ていても、悲しみや痛みにこころ覆われ、自分一人がつらい思いをしていると思い込んでいると、咲いたばかりの花も見逃すし、他者の悲しみや痛みに鈍感になる。

悲しみのなかに身を置いている自覚と共に、誰かと一緒にいる喜びが感じられると、つまり、禍福が糾えながらあるということに想いを馳せると、風光の見え方も違ってくる。「くだり坂」だから、つらく悲しい風光というわけではない。

榎本栄一(えのもと・えいいち)
1903年~1998年 兵庫県淡路島生まれ。
浄土真宗に帰依し、『群生海』『煩悩林』など、念仏の詩・仏教詩を著わす。

 🐸 🐸 🐸

掲示板の人形
何年も掲示板に人形を飾っているうちに、「そういえばカエル🐸の人形が多いいなぁ」と思い、集めてみました。
6月といえば雨、雨といえばカエル・・・なんて、超短絡的な発想です(^∀^)

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