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2022年5月 2日 (月)

2022年5月のことば

2022年5月を迎えました。
涼しいゴールデンウイーク期間を迎えています。一時 暑かっただけに、余計に寒さを感じます。体調整えてお過ごしください。
なんて言いながら、体調整えるには睡眠が大事と思うのですが、眠れぬ夜を過ごしてもいます。本を読んだりテレビを見たり、ひとりの時間を楽しみたくて。でも、以前は夜な夜なパソコンに向かって仕事をしていましたが、最近は極力控えています。寝る前にパソコンやスマホは見ないようにしています(テレビも控えた方がいいのかな?)。
つまり、おからだご自愛ください(-人-)

 🎏 🎏 🎏

2022年5月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら
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どうして、
さんずい に 争(あらそ)う と書いて
なんだろう?

「浄」の成り立ち

「浄土」「浄財」「清浄」「浄化」など、「浄」という漢字は、澄み切った様子、穢れのない様子を表わしています。けれど「浄」は、「さんずい」と「争う」で象(かたど)られています。成り立ちと意味とが噛み合っていないようにも感じます。あなたは、どう思いますか?

混沌(こんとん)

ロシアのウクライナへの侵攻が、一刻も早く終結することを願っています。そのうえで、この侵攻の報道を見ながら、平和を希求する側面と、争いで物事を解決しようとする側面とを持つ人間の混沌とした姿に、複雑な感情が湧いています。

たとえば、侵攻している側を責める言論。ロシアのウクライナ侵攻に対し、なぜ、今、これほどまでに過熱しているのか。ここに至るまで、香港への、台湾への、ミャンマーへの、ウイグル自治区への圧政や蹂躙(じゅうりん)が報じられても、今回のロシアへの非難ほどに熱を帯びることはありませんでした。何が違うというのだろう。今回は何がここまで突き動かしているのだろう。

たとえば、他者(ひと)の命を奪う行為への非難。非難があって当然だけれど、忘れてはならないことを抜かしてはいないか。かつての大戦で、人類は同様の行為を犯し、犯されてきた。実際に自分の手を血で染めたわけではなくても、今、私が、ここに生きている背景には、人類がしてきた行為や歴史がある。そのことを顧みる(省みる)ことなく、平和を語ってはいないだろうか。

たとえば、停戦を呼び掛けながらも、ウクライナへの武器・兵器の供給も行われている。ウクライナの人びとを守るためという大義名分もあるけれど、戦争は、やはり経済なのだとあらためて感じている。今頃、ウハウハした気分になっている人もいるのだろう。

他者を非難するとき、自分の行いや考えを顧みる(省みる)ことはない。

自己を正当化するとき、他者の言い分に耳を傾けることはない。

戦争と平和は、反対の概念ではなく、ひとつの循環のなかにある。

ひとたび戦争が起これば、私は、それまで言っていたことを、いとも簡単に翻すことだろう。平和を、安定を、秩序を大切だと訴えてきた私が、平和や安定や秩序をかろうじて守ってきたルールの否定を叫び始めるだろう。

戦争は、私を別人にしてしまう。いや、別人になるのではない。元々いた私が、今までとは違う形で表れるだけであって、私であることに変わりはない。そういうことをまるっきりすっ飛ばして他者を責める。私も罪を犯しているという懺悔と共にある叫びが、聞こえることはない。

「浄」のなかの「争」は私を表わす

さて、「浄」という漢字は、澄み切った様子、穢れのない様子を表わしています、と書きました。けれど、考えるべきことがあります。

あるもの、ある事柄を「浄(きよ)い」「清い」「きれい」などと表現するとき、どうして「浄い」「清い」「きれい」と言えるのでしょう? それだけしかない状況では、きれいという感情や感覚は湧いてきません。私は、比較によって物事を形容しています。いろいろなものを見て、知って、感じて、浄いとか濁っているとか認識します。
人間の視点では、比較することによって優劣・清濁・好醜など、区別・分類・差別をし、自分にとって都合の良いものを選び取ります。そんな私もまた、比較される対象でもあるのですが。
しかし、阿弥陀如来の眼は、比較することはありません。すべての生きとし生けるものが救いの対象です。区別や救いの順序は生じません。浄土、清浄なる世界とは、阿弥陀において表現されることであり、人間が形容するものではありません。

「南無阿弥陀仏と念仏申す者は、阿弥陀の浄土に摂め取られる」と説かれる教え。人間のイメージでは、浄土は浄い場所として捉えられているかもしれません。すると、浄土に摂め取られる私もまた、浄いものとなる想像がなされているのではないでしょうか。
いや、私のなかにある争いのこころ、濁ったこころは、捨てきれるものではありません。現在(いま)、世界(世間)で起きている出来事を見ていると、混沌とした私の姿が浮かび上がってきます。「浄」のなかの「争」は、まるで 私の姿を表しているかのようです。浄くなって救われるのではない。自分の姿を見失うなよと、教えから呼びかけられています。

紛(まが)いの美しさ

吉野弘さん(19262014)の詩です。

流れる水は
いつでも自分と争っている。
それが浄化のダイナミクス。

溜り水の透明は
沈殿物の上澄み、紛いの清浄。
河をせきとめたダム
その水は澄んで死ぬ。
ダムの安逸から放たれてくる水は
土地を肥やす力がないと
農に携わる人々が嘆くそうな

一見きれいに見えるものも、その美しさは紛(まが)いもの。澄んで透明に見える溜水も、その奥底には沈殿物がある。せきとめられた空間に貯められた水は、澄んではいても死んでいる状態。
「浄」とは、決して浄く穢れのない姿を言うのではなく、清濁合わせ持つ姿をいう。生きていれば、他者とのせめぎ合いや自分の中での葛藤もある。それはつらく悲しいことでもあるけれど、流れている、動いている、生きていることの証。紛いものではない私の姿。
「いつでも自分と争っている」。それが、私が生きてある姿。清濁合わせ持つ私が、阿弥陀如来と共にあります。南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
5月は毎年 鯉のガラス細工 昨年と同じような配置をしてしまいました😄


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