2022年4月のことば
2022年4月を迎えました。
桜を仰ぎ見る頃となりましたが、日が暮れ始めてからの寒さは、まだ厳しいものがあります。
体調を崩しやすい時期ですので、皆様お気を付けください👋
新年度のスタートですね。
小学校の、お世話になった先生方が異動されて、ちょっとショックを味わっています。
仕方のないこととはいえ、新しいスタートの季節は、共にお別れの季節でもあることを実感しています。
先生、お世話になりました。ありがとうございます。新天地でもお元気で (^-^)
🌸 🌸 🌸
2022年4月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら)
たとえ朝咲いて夜散る花であっても
その中には無限のいのちがある
金子大榮(1881年~1976年 真宗大谷派僧侶)
生まれ、生きるということ
長引くコロナと共にある生活。2年前の春彼岸、少しでも雰囲気が明るくなればと、風船をいくつもふくらませて境内に飾りました。
あれから早や2年。コロナを気にかけながらの生活に変わりはないものの、その内容は様変わりしました。得体の知れない新型ウイルスに戦々恐々していたときと比べると、精神的・肉体的負担は下がってきたのではないでしょうか。安心できる状況になったというわけではありませんが。
この2年ほど、何も進展がないようでいて、それぞれの生命(いのち)は、さまざまな事柄は、動き続けています。
境内の花々は、芽吹き、花を咲かせています。芝生に自生する水仙は、往来する人びとに踏まれてしまうのですが、それでも毎年草が生え、花を咲かせています。沈丁花(ジンチョウゲ)や満天星躑躅(ドウダンツツジ)は、春彼岸の参道に芳香を漂わせていました。4月末の永代経法要の頃に黄色い花を咲かす牡丹(ボタン)は、蕾をつけ始めました。
山門を入って正面にある松、柘植や梅などの木々は、植木屋さんが手入れに入る度に支えの棒が増えていきます。幹に手を触れると、その老いが伝わってきます。
成長という名の老い、老いという名の成長を続けているのは、植物だけでなく、人も、あらゆる生命も同様です。たとえ行動が抑制されてはいても、生命の営みは休むことがありません。生命の誕生と終焉は、コロナ禍であろうと懸命に尽くされています。
朝、夢や希望に満ち溢れていても、その日の夕刻には白骨となることもある。そのような生命を、私は生きています。しかし、生命を終えていったからといって、いのちが終わるわけではありません。無限のいのちを生きています。とはいっても、種を残し、また次の生命へとつながっていく。そういう意味での無限性ではありません。私自身は有限な生命を生きているのですが、そこに無限なるいのち、つまり阿弥陀如来が共にあります。
有限なものが有限なだけであったならば、諸行無常の辛さ悲しさが重く圧し掛かるだけです。人と生まれたことの意味は、悲しみに圧し潰されるだけであるはずがありません。無限なるものの支え(阿弥陀の慈悲)があるからこそ、有限なるものが、悲しみに圧し潰されるのではなく、悲喜こもごもの人生を生きていく力となるのです。
有限な私が立脚できる大地として無限のいのちがあります。無限のいのちと出遇うために、私は、人として生まれてきました。
私には、還るところがある
無限のいのちについて想うとき、親鸞聖人のご和讃を思い起こします。
名号不思議(みょうごう・ふしぎ)の海水は
逆謗(ぎゃくほう)の死骸(しがい)もとどまらず
衆悪(しゅあく)の万川(ばんせん)帰しぬれば
功徳のうしおに一味なり尽十方無碍光(じんじっぽうむげこう)の
大悲大願の海水に
煩悩の衆流(しゅりゅう)帰しぬれば
智慧(ちえ)のうしおに一味なり
(親鸞聖人「曇鸞和讃」)
ふたつの和讃の主意を汲み取り、このように試訳しました。
「どんなに濁った川も海に流れ出れば、清浄なる海とひとつとなります。同じように、阿弥陀如来を信じず、教えを謗(そし)り、煩悩で濁りきっている私でさえも、阿弥陀如来の、衆生をすくいたいと願う、海のように大きく深い慈悲のこころに摂(おさ)め取られて一味となります。」
ふたつの和讃に「一味」と出てきます。阿弥陀如来に摂め取られる、つまり、阿弥陀如来と共なる世界を生きる身となるという味わいが「一味」という語にはあります。
「一味」ということは、すべてが溶け合い混ざり合って阿弥陀と共なるひとつのいのちとなるということです。それは、死んで後の話ではなく、今現に、という話です。有限な私と無限の阿弥陀が一味となっているのです。
両方の和讃に「うしお(海)に一味なり」と書かれています。海の風景や姿は、親鸞聖人の思想に大きな影響を与えました。
海は、常に穏やかな状態であるわけではありません。波の形をとり、浜辺で人々の足元をくすぐる柔らかな波となるときもあれば、あらゆる建造物 あらゆる生命 あらゆる思い出を呑み込む大波となることもあります。穏やかなときもあれば、恐ろしい勢いを示すときもある。そして、どのような姿を見せたとしても、波は、元の海へと還ってゆきます。
そんな波に、人間の姿が重なります。人もまた、物静かな一面もあれば、怒り、威嚇し、相手を征服しようとする大きな波となって現われる一面もあります。
静かな波(人)もあれば、恐ろしい波(人)もある…のではなく、ときに物静かに、ときに荒れ狂う、一人の人間のなかにある姿です。そんな波(私)を摂め取ってくれる海(阿弥陀)がある。
たとえ朝咲いて夜には散るいのちであっても、たとえどのような姿形をとるかわからぬ私であっても、その中には無限のいのちがあります。
南無阿弥陀仏
🐶 🦊 🐶
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