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2022年3月 1日 (火)

2022年3月のことば

2022年3月を迎えました。
護持会費をお預かりしている西蓮寺ご門徒の皆さま宛てに「西蓮寺だより2022」と「ことば こころのはな(西蓮寺寺報 2022年2月号)」を発送いたしました。到着まで今しばらくお待ちください。春のお彼岸のお参りもお待ちしています。

「郵便物の発送」といえば、昨年(2021年)10月から、土曜日の配達がなくなりました。また、配達日数もかかるようになり、都内への発送も翌日には届かなくなりました。「木曜日の午前中に出せば、金曜日中に届くだろう」とたかをくくって出した郵便物が翌週月曜日に届きました。これからは早め早めに投函することをおすすめします。また、翌日に確実に届けたい郵便物はレターパックが重宝しています。370円かかりますが、厚紙で中身も折れないし、九州・東北の親戚に出した際も翌日に届きました。
今までを思い返してみるに、日曜・祝日以外毎日郵便が配達され、しかもかなりの範囲で翌日に届く。どんなに有り難いことか、配達に携わる方にどんなにご苦労をおかけしていたことか。感謝です(‐人‐)
そんなことを思った3月の始まりです。

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2022年3月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら

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その人を失った悲しみの深さは
生前にその人から
わが身が受けていた
贈り物の大きさであった
 宮城
 (みやぎ・しずか 1931年~2008年 真宗大谷派僧侶)

溢(あふ)れてくる悲しみ
大切な人との死別(わかれ)は、悲しみを生みます。また、「もっとお話しをしておけばよかった」「一緒に○○しておけばよかった」など、後悔の念も生じます。
そのように後悔する事柄を、どうして「その人」の生前にしておけなかったのでしょう。いえ、たとえ もっとお話しをし、もっと時間を共に過ごせていたとしても、「だから満足」ということはないでしょう。後悔の念が生じるのは、その人と共に過ごす喜びや有り難さを知っているから。この悲しみは、満ち足りなさから来るのではなく、満ち溢れているからこそ湧いてきます。

まぼろしのごとくなる一期なり
蓮如上人(本願寺第8世)は「白骨の御文」を、このように書き出されています。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまに いたりて たれか百年の形体(ぎょうたい)を たもつべきや。

(意訳)さて、私たち人間の無常なる生涯をよくよく思いめぐらしてみますと、この世に生まれ、育ち、命尽きるまで、まるで幻のような一生であります。この世に生を受けて一万歳生きた人がいるとは、いまだかつて聞いたことがありません。一生はあっという間に過ぎてゆくものです。いったい誰が、今の私の姿のままで百年の命を保つことができましょうか。

人の死に際し、「早すぎる死だ」「もっと活躍するはずの人だった」「これからも必要な人だった」などという声を聞くことがあります。偽りのない心の底からの叫びです。
けれど、「白骨の御文」に書かれているように、誰もが無常である生涯を生き、幻のような一生を過ごし、一万歳も生きることはなく、この身のままの私を百年保ち続けることなどできない身を生きています。皆 同様のいのちを生きているにもかかわらず、若くして亡くなれば「まだ早い」と嘆き、年齢を重ねれば「いつまで…」と愚痴をこぼす私たちの感覚は、果たしていのちのリアルが見えているでしょうか。
私は、「その人」の死を、いのちをまっとうした事実として受け止めたいのです。「その人」は、すべてを尽くして往きました。ということは、「その人」の姿から感じとること、学ぶこと、受け継ぐことがあるはずです。それらは「その人」から既にいただいていた贈り物です。

死は、最後の贈り物
真宗大谷派の寺院の坊守(住職の連れ合い)平野恵子さんは、39歳のときに癌告知を受け、41歳で還浄されました。3人のお子さんたちに向けて、病床からお手紙を綴られていました。

お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。でも、事実は、どうしようもないのです。こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげられること、それは、死の瞬間まで「お母さん」でいることです。元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、素直に、動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。
そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への、最後の贈り物になるはずです。
人生には、無駄なことは、何一つありません。お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいの、いや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。
たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。それが、お母さんの心からの願いなのですから。
〔『子どもたちよ、ありがとう』 法蔵館(品切れ・重版未定)〕

贈り物
「贈り物」とは、優しさ、仕草、共に過ごした時間、楽しい思い出など、「その人」を思い起こすものだけを意味するのではありません。
悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあること」、そのことに気付くきっかけ(縁)を、贈られていました。「贈り物」のおかげで、わたしは「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人となりました。
誰もが無常なるいのちを生き、それゆえに誰もが悲しみと共に生きています。その悲しみの深いところに、私を支えていてくださる大地がありました。大地に支えられながら、阿弥陀の慈悲に包まれながらある私でした。悲しみを抜きにしては気づかない世界がありました。
南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
3月、お雛祭りですね。
掲示板に飾るために、毎年毎年買っていた雛人形を並べました。
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