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2022年2月 1日 (火)

2022年2月のことば

珍しく、1日の朝にその月の寺報が手元にある。
昨年も毎月発行してはいたけれど、聞法会が休会中なためか「この日までに作らなければ!」の緊迫感がない。で、月が替わってからの入稿が続き、月頭はプリンターでプリントした寺報をお渡しすることが続いていた(流石に、1月号は元日から渡せるように、年内に完成させてはいるけれど)。
前の月中にネット印刷に入稿して、月が替わったときに手元にあるということは、プリンターでプリントする必要もないし、いきなり発送作業に取り掛かれる。2月1日の午前中に寺報を配る・送るための作業がほぼ終わった。あぁ、こんな爽快感、いつ以来だろう! と、ちょっと嬉しい。
毎月早め早めに終わらせればいいじゃん・・・という声は、私自身のなかからも聞こえてくる。わかってはいるけれど、それが難しい。なんてことを20年以上続けています(-人-)
さて、これから寺報とは別に年一で発行している「西蓮寺だより」の作成に取り掛かります。

 🍙 🍙 🍙

2022年2月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら

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我執が募ると、
 一人では淋しい
 大勢いるとうるさい
お念仏申すと、
 一人でいると静かでよい
 大勢いると賑やかでよい
         曽我量深

淋しさはなくなりませんね

元日の夕刻、境内の掃除をしていたら声をかけられました。初めてお目にかかる方でした。

しばらくお話しをしていると、

「昨年、連れ合いを亡くし、今はひとりです。孤独です。淋しいです。そんな私に、あなたたち僧侶はどのように声をかけてくださるのですか?」と尋ねられました。

私は、「手を合わせて、南無阿弥陀仏と念仏を申してください」と言いました。

その方は目を閉じて手を合わせました。そして私を見て、「淋しさはなくなりませんね」と言いました。

「それでも手を合わせて南無阿弥陀仏です。私にはそれしか言えません。いや、それだけは言えます」と言う私を見て、微笑みながら「ありがとう」と言って帰られました。

その会話以降、「孤独」ということについて考えています。

孤独にして同伴なし

「孤独」という言葉は古くからあり、源信僧都(9421017)の『往生要集』には、次のように出てきます。

我、今帰する所なく、孤独にして同伴なし

地獄の情景を描いた『往生要集』。

地獄のなかでも最下層の「阿鼻地獄(無間地獄)」は、他の地獄が天に見えるほど苦しみが絶え間なく続く世界であると書かれています。

阿鼻地獄に堕ちる者は「私には今、もはや帰るべき所もない。孤独であり、共に歩む者もいない」と、その苦しみを叫ぶと書かれています。

しかし、絶え間なく苦しみが続く「阿鼻地獄」に堕ち、そこで「痛い」「苦しい」と叫ぶのではなく、「孤独にして同伴なし」と叫んでいます。

その叫びは、同伴者、共に歩む者がいた喜びを知るからこそ出てくるものです。

「独」を含む熟語を想うと…

【単独】

「太平洋単独横断」や「〇〇山単独登頂」という言葉を聞くことがあります。

単身、ひとりで実行・達成しているかのような言葉ですが、実際は数多くのスタッフや賛同者がいてこそ挑戦できることです。

たとえ身を動かしているのは単身であっても、目に見えないところに多くの人の支えがあります。

  🐥

【独唱】【独演】

始終一人きりで歌うのであれば、「独唱」と表現する必要はありません。

複数人で歌うなか、独りで歌うから「独唱」と言います。

「独演」というと落語や講談です。

確かに、話者は一人ですが、独演会を催すために、どれだけの人の手が加わっていることでしょう。

「ソロコンサート」や「独り芝居」もしかり。

ひとつの物事をなすために一人では成し得ないことを、一人で舞台に立つ人ほど感じていることでしょう。

  🐥

【独立】

独立するということは、どこかに、なにかに所属していることが前提です。

そして、独立した後も協力者の力を得ながらの歩みとなります。

また、このように教えられたことを思い出します。

「独立」とは、ひとりで生きていけるようになることではなく、「助けてください」と言えるようになることですよ。

「助けてください」と言える対象がいる。だからこそ「独立」することができます。

  🐥

「孤独」をきっかけとして、「独」を含む熟語について思いを巡らせました。

それらは決して「独り(ひとり)」の姿を表現しているのではなく、「誰かと共にある私」を表現している言葉であることが見えてきます。

淋しさの自覚

そこで、今月の掲示板のことば、曽我量深先生(1875~1971 真宗大谷派僧侶)が語られたことばを思い出しました。

自己中心に生きていると、一人で居るときは淋しいのに、人が寄るとうるさいと感じる。
教えに出会い、南無阿弥陀仏とお念仏申す身となった者は、一人で居るときは静かさを喜び、誰かが居てくれるときは賑やかだと喜ぶ者となる。

曽我先生はそのようなお話しをされたと聞いています(私のノートに書き残した文言なので、正確な文言ではありません)。

「南無阿弥陀仏」と称えればそのような境地になれる、浄土に往けると仰っているのではありません。

淋しいと思う私の生活・環境に変わりはありません。

今まで傍らに居てくれた人がいなくなった心の穴を、お念仏が埋めてくれるわけではありません。

元日にお会いした方にお念仏を勧めたのは、淋しさを無くすためではありません。

淋しいときは、淋しいと口に出し、涙を流せばいいのです。

どんなに泣いても尽きることのない淋しさと涙。

失って淋しさを感じるほどの人との出会いがあるからの淋しさであり、その人との出会いを含めての今の私です。

果たして、私は独りですか!?

「静か」とは、シーンとして何も聞こえない状況を言うのではありません。

何か物音がしたときに、静かだなぁと感じるのです。

つまり、独りポツンとたたずんでいる状況ではないのです。

誰かと、何かと縁に結ばれている状況を表わしています。

親鸞聖人の教えに出会った者にとって、「南無阿弥陀仏」は、静かさを気づかせてくれる音(こえ)なのです。

南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
賑やかな人形がいいなぁと想い、カラフルなクマの人形を飾りました。
長崎に住む妹が、ハウステンボスで買って送ってくれたものです。

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