« 人間そのものを明らかにする宗教 | トップページ | 常々思うんですが・・・ »

2022年2月 7日 (月)

転換

真宗大谷派、ご本山 東本願寺発行の「同朋新聞」。20222月号内の連載「聞 今月の法話」廣瀬俊住職(大阪教区第17組 法觀寺)の文章より

亡き人に 迷うなと
拝まれている この私

これは自坊の掲示板に書いた言葉です。(中略)前を通られたご門徒から「あれって逆じゃないですか」と疑問の声もチラホラ(住職が書き間違えてるんやでぇというデマまでも)。亡き人が幽霊や亡霊となって私に災いを及ぼすんじゃないか、そうならないように「どうぞ、迷わないでください」と手を合わせている、そんな私たちの心では逆さまに見えるかもしれません。しかし、お念仏の教えの中においては逆さまではないのです。そして亡き人は幽霊でも亡霊でもありませんし、拝まれているのは私たちの方なのです。

世間一般的な考え方としては、「亡き人に 迷うなと 拝んでいる この私」「この私から 迷うなと 拝まれている 亡き人」といった具合に、「私は拝む人、亡き人は拝まれる人」といった図式なのかもしれない。

「どうぞ、迷わないでください」と、亡き人を迷いの主のように考える人にとっては、「私は拝む人、亡き人は拝まれる人」の関係しか見えないことでしょう。

お念仏の教えをいただくと、私自身が迷いの存在であることが知らされる。親鸞聖人自身も、我が身を迷いの存在として受け止められた。しかしそれは、南無阿弥陀仏の慈悲の光明に照らし出されることによって知らされるのである。自分自身が逆さまであったという転換があったのです。

  🐣

「あれって逆じゃないですか」の言葉で思い出したこと。
昨年末、三重教区の片山寛隆住職のお話しを聴聞した際、掲示板の言葉のお話しをされていた。 


善人は暗い
悪人は明るい

という言葉を掲示したら、近所の小学校の先生から、「住職、掲示板の言葉が間違ってましたよ。逆ですよ」と電話があったという。住職、慌てて掲示板を見にいったけれど、言葉は間違ってない。電話口に戻り、「言葉は間違ってませんよ。あれでいいんです」と応えると、「小学校の子どもたちが見たら混乱するから、言葉を変えてほしい」と言われたとのこと。

先生は、というか世間一般の考え方からすると、「善人は明るい 悪人は暗い」ということなのかもしれない。
「悪いことをした人は、後ろめたさから暗くなる。善い行いをしている人は、表情も明るくなる。」といった想いだろうか。

縁に結ばれ、縁に生きている私たちは、何をしでかすかわからぬ存在、思うがままに生きられぬ存在です。ということは、自分でも意識していないうちに他者(ひと)を傷つけることもあるし、良かれと思ってしたことが他者に迷惑をかけていることもある。そういう我が身であるという自覚ある者を、親鸞聖人は「悪人」と告白し、自覚なきものを「善人」と言われた。そのことはつまり、教えをいただいている、阿弥陀の慈悲に照らされている自覚の話。悪人の自覚あるものは、暗くなりそうでいて、阿弥陀の慈悲に照らされてある身であるという自覚(喜び)がある。それゆえに明るい。教えに出会うことなく、「私は善い行いをしている」つもりになって喜んでいる「善人」は、自分自身が見えていない。そういう意味において「暗い」(暗いと、なにも見えない)。

そういう教えが、掲示された「善人は暗い 悪人は明るい」に込められています(と思います)。
当然、片山住職は言葉を変えませんでした。

 🐣 

「逆ですよ」というエピソードは、うち(西蓮寺)にもあります。


人間の愚かさは、何に対しても答えを持っているということです
  ミラン・クンデラ

20176月に掲示したことばですが、掲示板を見た方から、「あれ、逆じゃないですか? 答えを持っていないから愚かなんでしょ」と言われました。おそらく、同様に思われた方も多々いらっしゃったことでしょう。

「物事をよく知っているのが賢くて、何もしらないのが愚か」というのが、世間一般での人間観・価値観かもしれません。けれど、知ったつもり賢いつもりになって周りの声を聞かなかったり、自分が一番正しいんだと主張したり、他者を見下したり…。それは果たして賢い者のする態度でしょうか。知ったつもり賢いつもりになって、つまり自分なりの答えで理論武装することによって、周りも、自分自身も見えなくなっている。そのこと自体に気づいていない。たとえどんなに知恵を身につけても、その知恵を自身の答えとして持ってしまうと、あらゆるものを失い、見失い、やがて孤独になっていきます。

賢い人は、自分の愚かさを知っている。どれほど知恵を蓄えても、知っていることはほんのこれっぽっち。知らないことが多い、つまり何も知っていないということを知っている。

「逆さですよ」のご指摘は、住職(寺の者)を気遣ってのこと。それはそれでありがたいことです。
けれど、「この言葉、逆じゃない?」と思えたならば、立ち止まって考えてみてください。「あぁ、言葉が逆さなんじゃなくて、私の思いが逆だった(教えによって、私の思いがひっくり返された)」という気づきを与えるのが、教えの言葉です。そういう意味では、至極当然の言葉や世間に迎合する言葉を掲示しても、それは意味のないことで。なんらかの気づきが与えられる。自分自身が見えてくる。それが教えなのです。
南無阿弥陀仏の照らしをいただいているということです。

« 人間そのものを明らかにする宗教 | トップページ | 常々思うんですが・・・ »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 人間そのものを明らかにする宗教 | トップページ | 常々思うんですが・・・ »

フォト
2024年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ