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2022年1月12日 (水)

「御文」第五帖 第12通(御袖すがりの御文)

当流の安心のおもむきをくわしくしらんとおもわんひとは、
あながちに智慧才学(ちえさいかく)もいらず、
ただわが身
はつみふかき、あさましきものなりとおもいとりて、
かかる機(き)までもたすけたまえるほとけは、
阿弥陀如来ばかりなりとしりて、
なにのようもなく、
ひとすじにこの阿弥陀ほとけの御袖(おんそで)にひしとすがりまいらするおもいをなして、
後生(ごしょう)をたすけたまえとたのみもうせば、
この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、
その御身(おんみ)より八万四千のおおきなる光明をはなちて、
その光明のなかにそのひとをおさめいれておきたまうべし。
さればこのこころを、
『経』には「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」(観経)とはとかれたりとこころうべし。
さては、わが身の、ほとけにならんずることは、なにのわずらいもなし。
あら、殊勝(しゅしょう)の超世(ちょうせ)の本願(ほんがん)や。
ありがたの弥陀如来の光明や。
この光明の縁にあいたてまつらずは、
無始(むし)よりこのかたの無明業障(むみょうごっしょう)のおそろしきやまいの、
なおるということはさらにもってあるべからざるものなり。
しかるにこの光明の縁にもよおされて、
宿善(しゅくぜん)の機ありて他力(たりき)信心ということをばいますでにえたり。
これしかしながら弥陀如来の御(おん)かたより さずけましましたる信心とは、
やがてあらわにしられたり。
かるがゆえに行者のおこすところの信心にあらず、
弥陀如来他力の大信心ということは、
いまこそあきらかにしられたり。
これによりて、かたじけなくも、ひとたび他力の信心をえたらんひとは、
みな弥陀如来の御恩をおもいはかりて、
仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)のために、
つねに称名念仏(しょうみょうねんぶつ)をもうしたてまつるべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ

今朝のお勤めで読んだ蓮如上人の「御文」。
何度も口にし、耳にし、目にしているお手紙に、今日はハッとさせられた。
阿弥陀如来の方から、私にさずけられている信心
念仏をはずして教えはない 自己が問われることはない
南無阿弥陀仏

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