嬉シ 悲シノ 六字カナ
「六字」の名号を称えることは、身に余る悦び(よろこび)のはずである。何故なら、この易行の道で、凡夫を救済しようとする仏の慈悲行の現れだからである。それにあずかることより、凡夫にとっての悦びはないはずである。だが嬉しさだけが想いなら、未だ(まだ)六字を称えてはいないともいえる。六字を称えるにつれても、我身の涜れ(けがれ)を、ゆめ忘れてはなるまい。切な悲しさが、嬉しさの奥にあってこそ、本当の悦びに代ろう。六字を称えることは、嬉しさと悲しさとの結ばれでなければならない。悲しみからこそ、六字の嬉しさが湧き出てくるのである。信徒は六字を称える身の有難さを喜ぶべきであるが、同時に悲しさの身であることを、六字につれて切に想うべきである。
〔『南無阿弥陀仏』心偈(こころうた)12 柳宗悦(岩波文庫)〕
六字の名号とは「南無阿弥陀仏」。
悦びは、悦びだけでは成り立たない。
悲しみが奥底に流れているからこそ、本当の悦びとなる。
悲しみもまた、悲しみだけでは成り立たない。
人の世の悦びには、悲しみも同時にある。
我身の涜れ(凡夫の自覚)ある所に、自然に「南無阿弥陀仏」が、凡夫の口から出てくる。
「南無阿弥陀仏」には、悦びと悲しみがこもっている。
南無阿弥陀仏
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