スタープラチナ
「東京新聞」2021年4月3日朝刊 「筆洗」より
「窒化ガリウムは素材としてはやっかいでして・・・」。開始からまもなく、置いてきぼりになったのを覚えている。ノーベル物理学賞受賞を記念した数年前の赤崎勇さんの講演である。「私は、(弟子の)天野教授の前座です」と一瞬笑わせたのはいいが、その後はずっと専門の用語を使い、なじみのない物質の名を多用して、自身の研究を語り続けた▼客席には専門外の人も多かった。熱心だが、ユーモア抜きの話は一時間以上に及ぶ。置き去りになる一方で、「一徹」を思わせるきまじめさと自らの研究に対する熱意、愛着が伝わってきた。それゆえのノーベル賞であったかと、多くの人が感じたはずである▼青色発光ダイオード(LED)開発に成功した赤崎さんが亡くなった。難問の「青色」をめぐり、赤崎さんと同じ方向の研究者は相次いで断念、撤退している。赤崎さんもやめたほうがいいという声を多く聞いたが、「ひとり荒野をいく」という心境で曲げなかった▼窒化ガリウムを使った研究は天野さんの活躍があって成功する。光の三原色がそろいLEDの光は世界中に届くことになった▼「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」。仏典の阿弥陀経は、そう極楽をえがいているそうだ。青いれんげは青く、黄色は黄色い・・・光を放つと▼青く光るべきものを青い光に導き、世界に花をもたらした人の生涯を思わせる。
昨日のブログ投稿で、赤崎勇さんと田中邦衛さんの訃報にふれた。
「東京新聞」のコラム「筆洗」においても、昨日は赤崎勇さん、今日は田中邦衛さんのエピソードが書かれている。
おふたりとも、出会った人のこころに残る人柄だったのだろう。
昨日の「筆洗」で、『仏説 阿弥陀経』の一節が出てきたので目に留まった(上記)。
新聞の社説や毎日のコラム欄を書く人の関心の広さを想う。
青く咲くべき蓮華は青く光り、
黄色く咲くべき蓮華は黄色く光り、
赤く咲くべき花は赤く光り、
白く咲くべき蓮華は白く光る。
『仏説 阿弥陀経』においては、阿弥陀如来の浄土に咲く蓮華の姿が描かれているだけで、「これには、こういう意味があるのです」などとは書かれていない。
けれど、教えにふれた者が、蓮華の姿を衆生(私)の姿に照らし合わせて、
「私は私として生きればいい。他の色(人)になる必要はない」と受け止められた。
教えと、教えにふれた者の歩みが、今、私に届いている。
(雑感)
絵の具など、色の三原色は、赤・青・黄。
この3色を、割合を変えて混ぜ合わせると、さまざまな色を表現できる。
3色を、同じ割合で混ぜると黒になる。
光の三原色の場合は、赤・緑・青。
この3色を、割合を変えて混ぜ合わせると、さまざまな色を表現できる。
つまり、赤崎勇さんが青色発光ダイオードを開発されたことによって、LEDライトを使ってさまざまな色を表現できるようになった。
この開発は、光の表現の可能性を爆発的に広げたことになる。
そして、赤・緑・青の光を同じ割合で混ぜると、白になる。
阿弥陀の浄土で輝く蓮華は、青・黄・赤と説かれてはいるが、その「黄」とは「緑」のことではなかったか!?
だから、青と黄(緑)と赤の蓮華が、それぞれが本来の色として輝いている浄土では、青と黄(緑)と赤が混じり合った白い光(白色の光という意味ではなく、まばゆい輝き)を放っているのではないだろうか。
ということを、ふと想いました。
南無阿弥陀仏
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