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2021年4月 1日 (木)

2021年4月のことば

4月を迎えました。
今年は、桜🌸舞う中で卒業式を迎えました。咲くのも散るのも早かったです。
境内では、躑躅(つつじ)や芍薬(しゃくやく)も咲きつつあります。
花の咲き始めが1ヵ月ほど早くなっています。
外掃除をしていると、汗ばむ暑です。
自然は、自然のままに循環しています。南無阿弥陀仏

 🌷 🌷 🌷

2021年4月のことば

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今、同じものを見ていても ひとり一人想いは違う

ひとり一人の出発点となる光景が違うから

ひとり一人の原風景

2年ぶりに開催されたセンバツ高校野球。仙台育英(宮城)の島貫丞主将が選手宣誓をされました。

「この3月で東日本大震災から10年となりました。日本、世界中に多くの協力や支援をいただき、仲間に支えられながら困難を乗り越え、10年前 あの日見た光景から想像できないほどの希望の未来に復興が進んでいます。これからの10年、私たちが新しい日本の力になれるように歩み続けます。」(選手宣誓の一部)

震災後の対応に対する日本政府への不信感や原子力発電依存への警戒感を持つ者からすれば、「復興にはほど遠い」「この10年間、何も変わってない」というのが率直な感想ではないでしょうか。そのような感覚の者からすると、選手宣誓にあるような「想像できないほどの希望の未来に復興が進んでいます」という言葉に違和感を覚えるかもしれません。私もその一人です。

けれど、大人の小賢しい考えを抜きにして、若人の宣誓に素直に耳を傾けたとき、私は現在(いま)だけを見て物を語ってきたのではないかということを思いました。

高校球児は、16~18歳くらいの年齢です。ということは、10年前の東日本大震災時は、6~8歳ということになります。そのくらいの年齢だと、それまでの思い出や記憶もおぼろげな頃ではないでしょうか。つまり、震災前と震災後の、街の光景や人間模様を比べるのではなく、震災後の光景や人間模様を出発点として、彼らはここまでの人生を歩んできて、現在の光景を見ています。

「復興にはほど遠い現状である」と口にし、「オリンピック・パラリンピックは震災からの復興の証」などという文言に違和感や嫌悪感を抱く人びとは、震災前の光景や人間模様を知っています。だから、震災前と震災後とを比べて、少しでも震災前同様の状況に戻ってほしいと「復興」を語ります。それゆえに「復興にはほど遠い現状」が見えて、落胆したり、怒りに震えたりします。

けれど、震災が発生した頃からの記憶を出発点とする若人にとって、防潮堤が築かれ、土地をかさ上げする大規模な造成工事が行われて高台移転し、街が整備されていく光景は、紛れもなく復興していく光景です。

今、同じ光景を見ていたとしても、ひとり一人感じることは違い、表現する言葉も異なり、未来に向けて希望を持てるか持てないかも人それぞれです。それは、現在の事柄や環境だけがそうさせるのではありません。ひとり一人の原風景、出発点となる光景が違うのですから、今、見えている光景が違うのも当然のことです。

ひとり一人に、出発点となる光景がある。そのことに、島貫丞選手の選手宣誓から教えられました。

今の光景には、出発点がある

ひとり一人に出発点となる光景があります。そういう視点が、そういう想像が欠如してはいなかったでしょうか。

たとえば、東日本大震災後の復興のために声を挙げ続けることは諦めてはいけません。今もなお避難されている方々の現状、原発事故の現状から目を逸らしてはいけません。けれど、被災した光景を原風景として、復興への歩みの只中を生き、その変化を心身で感じながら生きてきた人びとがいます。その人びとの目に映っている「復興」の姿もあります。

たとえば、「多様性を認めよう」ということが言われています。しかし、「現代はそういう時代だから」「時代の流れだから」という見方で、「私は認めています」という態度をとってはいないでしょうか。
多様性を認めるということは、他者(ひと)を認めるということです。そして、他者を認めるということは、現在の姿や思想だけを見て判断する、受け容れるということではなく、その他者の出発点となる光景を見る(知る)ということです。

目の前にいる人の出発点を知る。
誰にでも出発点となる光景がある。
知る、想像するということが多様性を認めることにつながり、他者を知るということに膨らみを持たせます。

現在のコロナ禍を原風景とする世代

10年前の出来事を原風景とする若人の目に映っているものに想いを馳せました。さて、10年後を生きる若人の目に、現在の光景はどのように見えていることでしょう。

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、この一年あまり行動を制限しながら生活をしてきました。人と人との交流、実際に面と向かって話をすること、食事をすること、旅行に行くことへの飢えを、身をもって感じている人も多いのではないでしょうか。だからこそ、コロナ以前の生活に戻ることを、コロナの収束として思い描いています。それは、人と人との面と向かっての交流が身に沁みついているからです。

けれど、このコロナ禍の状況を原風景とする若人にとって、「人との交流」と言っても、また違った光景として見えてくるのではないでしょうか。

「アフターコロナ」「ウィズコロナ」というと、あたかも今後のコロナとの付き合い方や処し方を思いますが、そうではなく、「人との交流」の変化を表現した言葉になるのかもしれません。

コロナ以前を是として、そのときの人と人との付き合い方を求めると、現在のコロナ禍を原風景とする若人との間に乖離(かいり)を生んでしまいます。

コロナ以前を知っている者もまた、現在のコロナ禍を原風景のひとつとして目に焼き付けることを、これからに向けて忘れてはいけません。

 🌞 🌞 🌞

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娘たちチョイス(*^▽^*)

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