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2021年3月 8日 (月)

ねたむこころ

人間は、嫉妬(しっと)や嫉み(ねたみ)でできている。

物であったり 名声であったり 評価であったり、自分が手に入れられるものは全部欲しいし、

他の人が手に入れるとなれば、素直に喜べない。

何でだろう? と考えた。

自分が欲するものは、元々の数が、総量が、分量が決まっている。

仮にその数を100とするならば、

50も60も手にする人もいれば、もしかしたら100手にする人もいるかもしれない。

ということは、20、10、5、3、1しか手に入らない人もいるということ。

0の人もいる。その方がはるかに多い。

手にすることのできる量に差があれば、当然嫉妬や嫉みも起こるだろう。

仮に、その量が適正であったとしても、嫉妬や嫉みは起こる。

人間はみんな平等のはずじゃないのか、と。

仮に、総量をみんなで均等に分け合えば、それもまた嫉妬や嫉みの元となる。

なんで頑張っている私と、怠けている あいつが同じ分量なんだ! と。

けれど、衆生(すべての生きとし生けるもの)に満杯の量を与えるものがある。

与えられているものがある。

それが阿弥陀の慈悲。

阿弥陀の慈悲は、仮にその数を100とするならば、

衆生ひとり一人に100、100、100・・・の分量の慈悲を注ぎ続けている。

みんなに100。

話が破綻している? 

否、だから阿弥陀の慈悲は“不可思議”。

人間の思議を超えている。

ひとり一人のいのちが、阿弥陀の慈悲の大きい海に摂め(おさめ)取られれば、阿弥陀と一味となる。

阿弥陀の慈悲は、仮にその数を100とするならば、衆生と一味となっても100のまま。

不思議 不思議

それでもまだ、人間は嫉妬し嫉む。

私だけを見ていて欲しいと。

 ☆

凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず・・・
(親鸞聖人『一念多念文意』)

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