区切りと節目
東日本大震災から明日で丸10年を迎える。
報道やSNS上で「10年の区切り」といった表現を目にする。
確かに、物事には区切りも必要だけれど、当事者にとっては区切りなんてものはない。
いつまでも現在進行形。
どれだけ寄り添うことに努めてきても、当事者の苦悩は当人にしかわからない。
“復興” を考えるうえでは、計画的な意味での区切りは必要。
けれど、それもまた 今後へと継続していく歩み。
区切りは、決して終わりではない。
阪神淡路大震災で被災した方にとっては阪神淡路大震災が、
東日本大震災で被災した方にとっては東日本大震災が、
現在のコロナ禍では多くの人の心にコロナ禍における生活が刻まれてゆく。
この時期、報道の濃度は東日本大震災に関するものが濃くなるが、3月10日は東京大空襲(1945年)の日として語り継がれている日である。
東京大空襲のことが思い起こされるという人もまた、多くいらっしゃいます。
私のなかでは、いつまでも長崎大水害(1982年)のときに実際に浴びた降水や滝のような水の流れ、雨が止んだ後の消毒剤を含んだ独特のにおい、給水車に並んだ経験、やっと水が通った銭湯に町の人たちが集まってギュウギュウになりながらも、みんな笑顔でお風呂に入った記憶が残っている。
この記憶は、私のなかでは大切な節目となっている。
節目・・・
「10年の区切り」ではなく、「10年の節目」ではないだろうか。
節目とは、竹の成長とともに表われるもの。
タケノコが、節目もなく伸びていったならば、どこかでポキッと折れてしまう。
あの柔軟なしなりもなくなってしまう。
私たちもまた、年を重ねるとともに節目が からだに、こころに、記憶に表われている。
だからこそ、物事に対して柔軟に対応する術や、辛い記憶がただ辛いだけのものとして刻まれるのではなく、私を生かす力として思い返される。
そうでなければ、経験した悲しみと募る思いに、私は耐えられない。ポキッと折れてしまう。
1年1年の節目があるからこそ、今まで生きてきた、今を生きられる。明日に向かって歩める。
今日は、東京大空襲から76年目の節目を
明日は、東日本大震災から10年目の節目を迎える。
節目があるからこそ、これからへと伸びてゆく。
南無阿弥陀仏
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