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2021年3月 1日 (月)

2021年3月のことば

花粉症に悩む方とお話をしていると、心和むのはなぜだろう?
話が合うって楽しい。
わかってもらえるって嬉しい。

 🌸 🌸 🌸

2021年3月のことば

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足を踏まれた痛みは、踏まれた者にしかわからない。

その私が、他者(ひと)の足を踏んでいる。

親鸞聖人と唯円房との会話

私のなかに善良な心が起こるのも、そうなるべき縁がもよおしてのことである。
私のなかに悪しき心が思い立つのも、そうなるべき縁のはからいによってのことにほかならない。

親鸞聖人は教えてくださいました。
「兎や羊の毛の先に付いている程度の小さな塵(ちり)。その塵ほどの小さな事柄をなすことでも、すべて私の思いを超えたはたらきが因縁となってなされたものである。そのことを深く自覚するべきである」と。

 

親鸞聖人と弟子の唯円房は、次のような会話を交わしています。

(親鸞)
「唯円、あなたにひとつ尋ねます。あなたは、私親鸞の言うことを信じますか」

(唯円)
「言うまでもありません」

(親鸞)
「それでは、私の言うことならば どのようなことでも背かないのですね」

(唯円)
「伏して申し上げます。仰せに従いますこと、言うまでもありません」

(親鸞)
「であるならば・・・唯円、人を千人殺してきなさい。そうすれば、あなたの往生は約束されることでしょう」

(唯円)
「し、親鸞さま、いくら師の仰せとはいえ、この私の力量においては、たとえ一人の人間であろうとも、殺すことなどできるはずがありません」

(親鸞)
「さて、どういうことですか。先ほどあなたは、私の言うことを信じ、背かないと言ったではないですか」

  ―沈黙―

(親鸞)
「これでわかったでしょう。どのような事柄であっても、自分の思いのままになせるのであれば、師から“人を千人殺してきたならば往生は約束されます”と言われたならば、本当に人を千人殺すこともできるでしょう。しかし、たとえ一人でも殺す縁がもよおさなければ、殺すことなどできないのです。そのことは、自分の心が善良だから殺さないのではないのです。また、殺すことがいけないことだと思っていても、百人、千人を殺すということだってあるかもしれません。

そうなるべき縁がもよおすならば、私の思いとは違う振る舞いだってしてしまうものなのです。それが人間、それが私です。そのことを決して忘れてはいけません」
     (『歎異抄』第13章より)

さるべき業縁のもよおせば

「そうなるべき縁がもよおすならば、私の思いとは違う振る舞いだってしてしまうものなのです」という聖人の教え。

その教えに対して、あなたは何を思いますか?

「人殺しは悪いことです。たとえ縁がもよおしても、私は人殺しなどしません」

「たとえ縁がもよおしたとしても、強い心を持っていれば人を殺すことなど回避できます」

そのような声を聞いてきました。

純粋な思いなのかもしれません。

けれど、そのように思うのは、聖人の教えを、まだ犯していない未来の話のつもりで聞いているからかもしれません。

その態度はつまり、教えを他人事として聞いているということでもあります。

聖人が説かれるのは未来の話でも、仮定の話でも、悪事を避けるための教訓でもありません。

また、ただ単に「縁に生きている」ということを伝えようとされただけの話でもありません。

縁に生きているとはどういうことだろうか。

たとえば、無数のいのちが生きるこの地球上において、有り得ないほどの偶然によって出会った人びとがいる。
出来ることならば、せっかく出会った人びととの関係を大切に生きたい。
しかし、特定の者との関係を大切に生きるということは、そこから漏れる者がいるということ。
関係を大切にしたいと思った者どうしが、いつまでも良好な関係でいられればいいけれど、そうはいかない。
関係が深いからこそ憎しみも深くなるということがある。

自分の思いのままになせるのであれば、わざわざ誰かを傷つけることはしない。

けれど、縁に生きている。

つながり合って、影響し合って、派生し合って生きているということは、
誰かにとって良い縁がもよおしたとき、誰かにとって悲しい縁が生じているということ。
誰かの苦労のおかげで、誰かが楽を享受しているということ。
誰かのために手を差し延べているそのとき、私の足は誰かを踏みつけているということ。

誰かのためにかけた言葉が、その人の心に届いて、はげみとなることがある。
また、同じ言葉をかけて、傷つく人もいる。
言葉は、人を助けもすれば傷つけもする。
助ける言葉と傷つける言葉があるわけではない。

私は、踏まれた足の痛みは忘れない。
踏まれた事実を忘れない。
けれど、自分が誰かの足を踏んでいるということを自覚することは、ない。

親鸞聖人が唯円に語った「縁に生きる」ということ。
それは、自分自身が今、現に悲しみを生み出しているということ。
そのこともつらく悲しいけれど、他者の足を踏んでいる自覚のない私は、悲しみを生んでいる事実を知らない。
足を踏まれている人の痛みを知らない。
そのことが悲しい。

そのような私であることを忘れないでほしい。
その自覚において、阿弥陀如来が私と共にあることが聞こえてくる。

南無阿弥陀仏

 🌸 🌸 🌸

掲示板の人形
2匹のイヌ🐕🐕
だいぶ毛羽が立っているけれど、娘たちが小さいときから一緒です。
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