生きることは・・・
『暮らしの手帖』第11号(2021年3月25日発行)
表紙に、特集の読み物のタイトル
「生きることは、楽しいことばかり」と書かれている。
このタイトルに対して嫌悪感を抱く人の声が聞こえてくる。
「生きることはつらいことばかりだ。どうして楽しいなんていえるのか。」
「あまりにも能天気な言葉が書いてあって、好きな雑誌だったけど、読む気もしない。」
など。
お釈迦様が、「一切皆苦(いっさいかいく:この世の一切は皆、苦である)」と説かれたことからもわかるように、この世は、人が生きるということは、すべて苦である。
楽しいことばかり、ではない。
タイトルへの嫌悪感を示した人たちも、ホント、今、大変な状状況に、悲しい立場にいることと察します。
でも、この雑誌の編集に携わる人たちも、このタイトルの取材対象になった方も、生きていると楽しいことばかりではない、辛いことはいっぱいあることは、分かっている。
そのうえで、「生きることは、楽しいことばかり」と語りかけてくださっています。
これ以上書くと、発売したばかりの雑誌の内容を明かしてしまうことになるので、これくらいにしておきます。
〇今日書きたかったことは、雑誌でも、テレビでも、ネットでも、SNSでも、「生きることは、楽しいことばかり」といった発言をすると、嫌悪感・拒否感をぶつけたくなる感情や現状って、なんでしょう?
嫌悪感や拒否感を抱く背景には、私自身のつらい現状が反映されているのはわかります。
けれど、公の媒体で「生きることは、楽しいことばかり」と発するには、発する側にもそれなりの覚悟があってのこと、こんなときだからこそ発信しなければ!という思いがあってのことだと思うのです。
(SNS上の場合は、気に障ることがあるのもわかりますが。)
何を伝えようとしているのだろう?
何をもって楽しいことばかりというのだろう?
そういう気持ちで、とりあえず読んでみることです。
私は、「生きることは、楽しいことばかり」、好きです。
誌面で書かれているようなことを言えるということは、人知れぬ苦労や経験があってのことだと思います。
お釈迦さまの「一切皆苦」も、特集の読み物「生きることは、楽しいことばかり」も、表現が違うだけで根っこには同じものが流れています。
苦と楽、正反対の表現こそ、同じことを言っているということがあります。
そういうことに気づいたとき、「楽しいな」って感じます。
〇もうひとつ思ったことは、
この私自身が「生きることは、楽しいことばかり」と言いきれない社会を作っている一員であるということ。
大人が「“生きることは、楽しいことばかり”ではない!」「“生きることは、楽しいことばかり”なんて能天気な話だ」などと言っている社会で育つ子どもたちは、どう感じるでしょう。
大人がそんなふうに思っていながら「子どもたちには未来がある」「子どもたちのために」と言っても、
それって、子どもたちからすれば「楽しくない現状と言いながら、がんばれ!なんていうなよ」「勝手に今時代の未来を託すなよ」と思われるかもしれません。
対外的なもの、政治や経済や社会、個人の熱意だけでは動かせないものもあるかもしれない。
でも、生きているなかで、新しい気づき、今まで見えていなかったものの発見、今まで否定していた道へのアプローチなど、個人を、私自身を動かすことはできるのではないだろうか。
「“楽しいこと”は何も、豪華なことや贅沢なことに限らなくて、生きている、そのものの中に山ほどある」と、「生きることは、楽しいことばかり」に書いてあります(あ、言っちゃった)。
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