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2021年3月

2021年3月31日 (水)

ひと休み ひと休み

小中学校への休校要請から一年以上が過ぎ、いまだ制約が多いとはいえ、一年前と比べればいろいろなことが出来るようになりました。

経験やデータの蓄積は、大切なものですね。

さて、気の向くまま

書いてきたブログ。

昨年3月から、思い立って毎日綴ってきたけれど、今年の2月に苦しくなりました(原稿いっぱい抱えていたのもあったけど)。

とりあえず2月いっぱい、つまり1年間毎日綴ったうえで区切りを付けようと決心しました。

その後は、以前同様 気の向くままに書いていけばいいや、と。

3月1日は、毎月の寺報をアップして、

3月2日、「今日はブログを書かない日!」と自分に言い聞かせて、意識して書きませんでした。

で、これからは無理せず(今までも、決して無理はしていないけれど)、綴りたいことがあるときに綴っていこう!と思ったらなんだかとても楽になりました。

結局、3月3日以降毎日綴りました。

継続は大切なことだけれど、継続そのものが大切なのではなく、どうして続けるのか、なぜ続けるのか、なんのために続けるのか・・・そこのところがハッキリしていることが大切です。

そういう部分を見失ったから、私は苦しかったのでしょう。

1日休んで途切れさせて、いつ書いてもいいやと思ったら気持ちが楽になって、書きたいこと(表現したいこと)って生きていれば いっぱいいっぱいあるわけで、また毎日パソコンに向かっていました。

休憩、区切り、ひと休みは、後生(これからの歩み)に向けて大切なものでした。

ひと休みの期間や回数は、それもまた人それぞれ。

自分に課題を課してそれに努めることもいいけれど、それと共にひと休みの大切さも知っている方がいい。

それがまた、今後の歩みへとつながっているから。

  ☆

(付記)
祝・プロ野球開幕
衣笠・金本・鳥谷・・・プロ野球の連続出場記録は、凄くて尊い記録だけれど、衣笠選手や金本選手の選手生活の晩年を見ていたとき、どこかで記録を終わらせる決断も大切なのだと感じていた。選手本人にとっても、チームにとっても。
そういう意味で、鳥谷選手は、記録は途切れたってまだまだやれると思ったし、今年もロッテでの活躍を期待しています。
そういう意味で、松井選手(元)巨人や秋山選手(元西武)は、大リーグに行って連続出場記録を気にしなくていい状況でプレーできた(できる)のは、良かったと思う。
今年は、球場に行って観戦したい🥎

2021年3月30日 (火)

念佛を称えるということ

「念佛者の人生は まさに慚愧と歓喜の交錯」
  梯實圓師

「お念仏は、讃嘆であり懴悔である」
  金子大榮師

 ☆

念仏の教えに出遇うということは、

喜びだけの生活になるわけでもないし、

詫びるだけの生活になるわけでもない。

念仏をいただいて、生活そのものが変わるわけでもない。

今までの生活と変わらぬなかで、

慚愧と歓喜が交錯しながら生きてきた事実に気づかされるということ。

阿弥陀の大慈悲に 讃嘆と懴悔が芽生える。

ふたつの内容があるということではなく、

人生は慚愧と歓喜が交錯しながら共にあり、

念仏申すところに 讃嘆と懴悔が共にある。

南無阿弥陀仏

2021年3月29日 (月)

面授(めんじゅ)の法

今日、得度研修の講師として出講

講義の時間になり、講師の机へ

受講生の皆さんの顔を見ながら、やっと気づく

あ、こうやって人前に出て話をするの、一年ぶりだ!

新型コロナの影響で、お寺の例会も休止し、よそのお寺にお話に出かける機会もなくなりました

感染症対策を講じながらの研修会

こうやって場に集まって研修が開けるのも、スタッフの熱意と努力、受講生の協力のおかげです

南無阿弥陀仏

例年は宿泊で一泊二日の研修も、今年は一時解散・また明日集合

みなさま お疲れ様です

今晩はゆっくりとお休みください

また明日、よろしくお願いします

 ☆

この一年間で、今までリモートとは無縁だった人たちもリモートを活用する生活が身についてきました。

リモートを使う生活がゼロになることは、ないでしょう。

そのうえで、法(教え)は、面授で(面と向かって話して)こそ伝わっていくところもあります。

実際に同じ場に身を置き、複数人で教えにふれ、みんなで話し、我がこととして考え受けとめる。

リモートと面授の場が共に成り立つ道を、これからは模索していかなければならないことと想います。

少なくとも、今日明日の研修会で同じ場にいられることに感謝

南無阿弥陀仏

2021年3月28日 (日)

生きることは・・・

『暮らしの手帖』第11号(2021年3月25日発行)

表紙に、特集の読み物のタイトル

「生きることは、楽しいことばかり」と書かれている。

このタイトルに対して嫌悪感を抱く人の声が聞こえてくる。

「生きることはつらいことばかりだ。どうして楽しいなんていえるのか。」

「あまりにも能天気な言葉が書いてあって、好きな雑誌だったけど、読む気もしない。」

など。

お釈迦様が、「一切皆苦(いっさいかいく:この世の一切は皆、苦である)」と説かれたことからもわかるように、この世は、人が生きるということは、すべて苦である。

楽しいことばかり、ではない。

タイトルへの嫌悪感を示した人たちも、ホント、今、大変な状状況に、悲しい立場にいることと察します。

でも、この雑誌の編集に携わる人たちも、このタイトルの取材対象になった方も、生きていると楽しいことばかりではない、辛いことはいっぱいあることは、分かっている。

そのうえで、「生きることは、楽しいことばかり」と語りかけてくださっています。

これ以上書くと、発売したばかりの雑誌の内容を明かしてしまうことになるので、これくらいにしておきます。

〇今日書きたかったことは、雑誌でも、テレビでも、ネットでも、SNSでも、「生きることは、楽しいことばかり」といった発言をすると、嫌悪感・拒否感をぶつけたくなる感情や現状って、なんでしょう?

嫌悪感や拒否感を抱く背景には、私自身のつらい現状が反映されているのはわかります。

けれど、公の媒体で「生きることは、楽しいことばかり」と発するには、発する側にもそれなりの覚悟があってのこと、こんなときだからこそ発信しなければ!という思いがあってのことだと思うのです。

(SNS上の場合は、気に障ることがあるのもわかりますが。)

何を伝えようとしているのだろう?

何をもって楽しいことばかりというのだろう?

そういう気持ちで、とりあえず読んでみることです。

私は、「生きることは、楽しいことばかり」、好きです。

誌面で書かれているようなことを言えるということは、人知れぬ苦労や経験があってのことだと思います。

お釈迦さまの「一切皆苦」も、特集の読み物「生きることは、楽しいことばかり」も、表現が違うだけで根っこには同じものが流れています。

苦と楽、正反対の表現こそ、同じことを言っているということがあります。

そういうことに気づいたとき、「楽しいな」って感じます。

〇もうひとつ思ったことは、

この私自身が「生きることは、楽しいことばかり」と言いきれない社会を作っている一員であるということ。

大人が「“生きることは、楽しいことばかり”ではない!」「“生きることは、楽しいことばかり”なんて能天気な話だ」などと言っている社会で育つ子どもたちは、どう感じるでしょう。

大人がそんなふうに思っていながら「子どもたちには未来がある」「子どもたちのために」と言っても、

それって、子どもたちからすれば「楽しくない現状と言いながら、がんばれ!なんていうなよ」「勝手に今時代の未来を託すなよ」と思われるかもしれません。

対外的なもの、政治や経済や社会、個人の熱意だけでは動かせないものもあるかもしれない。

でも、生きているなかで、新しい気づき、今まで見えていなかったものの発見、今まで否定していた道へのアプローチなど、個人を、私自身を動かすことはできるのではないだろうか。

“楽しいこと”は何も、豪華なことや贅沢なことに限らなくて、生きている、そのものの中に山ほどある」と、「生きることは、楽しいことばかり」に書いてあります(あ、言っちゃった)。

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2021年3月27日 (土)

答えはひとつじゃない

初の試み、「西蓮寺 ZOOM 聞法会」開催

ZOOMは経験済みだけれどホストは初めてだったので、西蓮寺門徒さんのみに案内(「西蓮寺だより2021」)を発送。

3名の方がご参加くださいました。ありがとうございます。

私の法話から始まって、私含めて4人で感想を言い合いました。

今日の聞法会で印象的だったお話。

長きにわたり工学系の学び・仕事をされてきた方から、次のような言葉をいただきました。

「理学は、ひとつの答えを導き出します。答えはひとつです。でも、工学は、与えられた条件下において最適な答えを導き出すものなんです。

だから、条件や状況が変われば、答えは変わる。

また最適な答えを導き出さなければなりません。

つまり、答えはひとつじゃないんです。

このコロナ禍も、みんなが困ってはいるわけですが、

今日、ZOOMで聞法会を開催してくださったように、そのときの状況に応じて出来ること、やらねばならないことが出てきます。

そのなかで、最適なできることを導き出す、見い出す。

それが大事なんだと思います。

このコロナ禍においても、また状況は変わるでしょう。

そのときには、またそのときの最適なことを導き出す。

答えはひとつじゃありません。

その都度、その都度、置かれた状況で最適な対応を探し出していくこと。

それが大事だし、今もそうやってみんな生きているんだと思います。」

人生の先輩から大切なことを聞かせていただきました。

ありがとうございます。

参加くださいました皆さま、ありがとうございます(‐人‐)

南無阿弥陀仏

2021年3月26日 (金)

還って生(い)く

波が、広く深い海から生じるように

人も、大いなる いのち から生じる

波が、海から生まれて海に還るように

人もまた大いなる いのち から生まれて 大いなる いのち へと還ってゆく。

誕生があり、老い、病に伏し、やがて死を迎える

人間の目には、死は、いのちを 区切るもののように見えてしまう

波が消えても、海はあり続けるように

個人としての いのちは終えても、大いなる いのちはあり続ける。

永遠に続くいのち

今、いのちがあなたを生きている

南無阿弥陀仏

2021年3月25日 (木)

あなたの未来は縛れない

卒業式

6年ひとむかし

明日を想う

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先生方

学校で子どもたちを温かく見守っていただいた皆さん

ウーパールーパー

うさぎのふくちゃん

そして、子どもたち(あなたたちと接する時間を持てて、私は楽しかったです)

みんな みんな ありがとう

2021年3月24日 (水)

番付

NHK大河ドラマ「青天を衝け」にて

若き渋沢栄一が藍の商いをするなかで、藍農家を招いて宴を催す際、年長の者を上座に座らせるのではなく、その年一番の質の藍を育てた若者を上座に座らせた。

反発を招いた座配だったが、「みんなで高め合って、村の藍(武州藍)を日本一の藍にしよう!」と呼びかける栄一の熱意に刺激され、一番の藍を育てた若者に長老が「どうしたら、そんな良い藍が育つのか?」と尋ねるなど、宴は情報交換の場となり、「来年は俺が一番だ!」と藍農家の人びとの競争心を駆り立てることとなった。

そのシーンで、一番の品質の藍を育てた若者が座らされた座には「大関」と番付が書かれていた。

一番なら「横綱」じゃないの?と思った人もいるかもしれない。

けれど、他にかなう者がいないほど強い力士の番付(最高位)は「大関」だった。

だから「大関」には“最高”の意味が含まれている。

そんな「大関」のなかでも、更にむかうところ敵なしの力士が表われた。

そこで、「大関」のさらに上を行く番付として「横綱」が生まれた。

そう考えると、「横綱」の強さや品位とは、本来表われる者がいないほどのもの。

「横綱」空位でも、まったく不思議なことじゃないということ。

横綱 鶴竜関が引退を決意したとのこと。

ながいことお疲れさまでした。

「横綱」晩年は、結局休場続きのままで批判を浴びるなかでの引退となった。

けれど、「横綱」の名にかなわない力士ではなかったと思う。

怪我さえなければ、などということを言いだすとキリがないのだけれど、万全の状態で取り組みを続けることの難しさ大変さを思う。

2021年3月23日 (火)

お目にかかれて光栄です(‐人‐)

2021年 春のお彼岸 最終日

毎年、ご自宅の庭に咲く桜の枝を選定して持ってきてくださる門徒さんがいます。

今年もいただきました。

この一週間、少しずつ咲き始め、お彼岸最終日の今日は、見ごろを迎えました。

玄関に飾らせていただいています。

お参りにみえた方も、「きれいですね」と眺めていました。

私たちも、ホッとした気持ちにさせていただいています。

ありがとうございます。

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墓地の一番奥に、娘たちが幼い頃に植えたチューリップがあります。

本来なら翌年は咲かないはずのものですが、植えたチューリップのいくつかが、今でもこのお彼岸の時期に咲いてくれます。

ただ、元はいろいろな色が咲いていたのですが、なぜかみんな白いチューリップになりました。

自然界の淘汰の結果なのだと思いますが、「不思議だねぇ」と言いながら娘たちと眺めています。

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お彼岸のお参り、皆様 有り難いことでした。

お顔を拝見できて、お話をできて、大切な時間でした。

ありがとうございます。

またお目にかかりましょう。

お元気でお過ごしください。

南無阿弥陀仏

2021年3月22日 (月)

同じ期間を過ごしていても、深さや幅の違いがある

2021年3月21日で緊急事態宣言が解除された。

若者に不要不急の外出を控えるよう呼びかるなかで、「おじいちゃん、おばあちゃんのために」というものがあった。

若者は無症状で済む人が多いけれど、年配の人ほど、新型コロナウイルスに罹患した場合重症化しやすいと言われている。

それゆえ、自分のおじいちゃんおばあちゃんのため、日本のお年寄りのため、という呼びかけとなるのは理解できる。

しかし、「〇〇のため」は、本来自発的に起こすもの、起きるものではないだろうか。

他者(ひと)から「〇〇のために頑張りましょう」と言われても、気持ちを持って行くのが難しい。

そして、「〇〇のため」と言う際、強いられる若者自身のことを考えているだろうか。

緊急事態宣言下、基本的にすべての人々が行動を抑制されてきた(一部の国会議員を除いては)。

けれど、人生においてかなりの人びとに会い、既に人間関係を形成・構築してきた者と、

これから人に出会い、良くも悪くも人間関係を構築し、酸いも甘いも体験していくはずの若者とでは、

昨年、コロナ禍が始まってから過ごしてきた期間は同じでも、

得るはずであったものの人間関係や経験・体験を得られなかった量は計り知れない。

そういうことをふまえたうえで、「それでも、〇〇のため」と断腸の思いで訴えるのか、

みんな我慢しているんだからとか、若者が外に出歩くからいけないんだなどと思いながら「〇〇のために行動を慎め」と言い放つのか。

そういうことも思う。

2021年3月21日 (日)

地震と強風と大雨と

昨日(2021年3月20日)午後6時9分ころの地震。

午後5時を過ぎて、お彼岸のお参りの方も少なくなったので、境内の片付け・掃除へ。

作業中だんだんと日も暮れてきて、誰もいなくなった墓地を歩いていると、なんとも表現し得ない空気に包まれた。

木に止まって休んでいた鳥たちは飛び立ち、
からだの周りの空間が凝縮され、
雨は降っていないのだけれど 周囲で雨音のようなものが聞こえ、
やがてこの雨は雹に(ひょう)に変わるだろう、なんて根拠のない想いが頭をよぎった。

そんな感覚に襲われているそのときが、6時9分の揺れが起こっていたときだった。

作業を終えて家に戻ると、テレビは地震と津波の情報を放送していた。

「え、地震あったの?」と言う私に、妻も娘たちも「あったよ!! 気づかなかったの‼」とあきれ顔で言われた。

それほどの地震、津波への注意・警戒を呼びかけ続けていたけれど、大事なかったようでよかった。

 🌀 ☔

今日は、台風ほどとは言わないけれど、雨風の強い一日だった。

そんななかでもお彼岸のお参りにみえて、頭の下がる思いだった。

お参りの方が少ない分、今日お参りにみえた方とはゆっくりとお話ができた。

いろいろなお話ができて、気持ちが落ち着いた。

お参りいただき、ありがとうございます。

午後5時過ぎ、雨風は収まってなかったけれど境内の片付け・掃除へ。

せっかくの墓地花も吹き飛んでいた。

お墓の区画内にある花は、挿し直しておきました。

けれど、境内に飛び散っている花は回収させていただきました。

お参りされたばかりのお花もあったと思いますが、強い風ゆえご理解ご了承ください。

春彼岸は あと2日(お彼岸を過ぎても、お参りいただけます)。

お参りお待ちしています。

南無阿弥陀仏

2021年3月20日 (土)

テレビ番組やコマーシャルは、世相を表わしている

容姿に関することで、昨日の投稿のようなことを考えている折り、テレビから「なやみむよう」の声が聞こえてきた。

コマーシャルの内容よりも「な・や・み・む・よ・う」の語句と言い方が耳の底に残った。

頭皮や脱毛に関するケアを扱う企業のコマーシャルだった(書かなくても分かると思うけど)。

今までは特別何も感じなかったけれど、「容姿」に関することを考えていたので、耳の底に残ったのだと思う。

「あれ? 薄毛や脱毛って、“なやみ”ごと なの⁉」と思った。

ストレスで円形脱毛症になる人もいるし、そういう意味では実際に悩んでいる人はいる。

けれど、年を重ねて薄毛や禿(はげ)になることは、そもそも悩みごとなのだろうか?

また、最近の宣伝で気になるのは、女性の写真を見せて「この人は何歳でしょう?」と尋ねて、実際の年齢を明かして みんなが「うそ~」と驚くスキンケアやサプリのコマーシャル。

いわゆるアンチエイジング系のコマーシャルのいやらしさが目につく。

年相応に年を重ねていくのは、べつに問題ないことではないか。

悩みだろうか? 恥ずかしいことだろうか?

年を重ねれば、差はあれど誰だって髪は減るし、肌は潤いを無くすし、シミは出てくるし、思いと身体はバラバラになっていく。

その当然の部分において、あまりに“なやみ”ごと化し、若く見えることが素晴らしい化してはいないだろうか。

今書いていることは、そういう宣伝をすることの問題性や気持ち悪さを言おうとしているのではない。

髪が減る、肌の潤いが失われる、シミが出る、身体にガタが出る・・・そういうことを悪いこと、恥ずかしいこと、許せないこととしている私がいないだろうか。

そして、もし悪いこと、恥ずかしいこと、許せないこととしているとしたら、それは自分の容姿に関してのみの感情だろうか。

いや、他者(ひと)の容姿も同じように見ているのではないだろうか。

「あの人、髪が薄い」と、「あの人、〇〇」「あの人、△△」・・・などと、他者の容姿を見ては、自分の判断基準「悪いこと、恥ずかしいこと、許せないこと」と照らし合わせてはいないだろうか。

自分の年齢相応の老いを、なやむほどに気にする根っこには、自分の判断基準がある(それは誰にだってある)。

悲しいのは、その自分の判断基準を他者にも適応して見てしまうこと。

でも、そういう見方って、少なからず誰もがしているのだと思う。

だから、他者の容姿をネタにした笑いが盛り上がり、他者の容姿をネタにすれば盛り上がるに違いない!と勘違いした提案をしてしまう。

面白いから、ネタになるんじゃない。

自分のなかに、悪いこと、恥ずかしいこと、許せないことという判断基準があるから、他者の容姿を取り上げたときに笑いとなる。

同じネタで、自分のことを取り上げられたら決して笑えないのに。

2021年3月19日 (金)

「容姿侮辱」の見出しで、オリンピック・パラリンピックに関わる人のLINEへの投稿が紙面を賑わしている。

投稿主を擁護するつもりは毛頭ないけれど、私の世代(50歳前後)は、容姿で笑いをとるネタを何の違和感もなく見て笑ってはいなかっただろうか。

だから、そういう思想が根付いて、何が問題なのかをきちんと理解しなければ、自分だって何を言いだすか分からない。

そういう世代だと感じる。

世代で一括りにするつもりもないし、時代のせいにするつもりもない。

ただ、一人をつるし上げて「けしからん」「傷つく人がいる」「価値観が時代遅れ」などと罵っても、根本的な解決にはならない。

投稿者と同世代の人たちは同じ時代を生きてきたわけで、笑いのネタにしろ涙を誘うドラマにしろ、価値観や興味を惹かれるものは似ている。

当然、その時代(とき)に「それはおかしいよ」と抗ってきた人たちもいるはずだけれど、大きな波というものが世を覆い尽くす。

だから、投稿主が手掛けてきたCMなどは、人気があって長続きしているものが多い。

それは、価値観が似ている人、共鳴・共感する人が多くいる世代ということもあるのではないだろうか。

つまり、特定の誰かさんだけの問題ではなく、多くの人に刷り込まれている思想である。

そのことを認識しなければいけない。

でなければ、今多くの人が笑っているネタも、数年後には人を傷つける事柄となるかもしれない。

そして、その頃を生きる人びとに言われるのだ。

「あなたの価値観は時代遅れだ」と。

2021年3月18日 (木)

希望(希薄な望み)

夕刻、テレビのニュース番組で、

「暗いニュースが多いので、希望を持てる話題を・・・」

ということで、国際宇宙ステーション “きぼう” が、今晩7時30分過ぎに日本上空を通過する旨伝えていました。

子どもたち大騒ぎ。

ということで、東京上空通過予定時間の午後7時42分のちょっと前から外に出て、西の空を眺めていました。

結果的に見ることは出来たのですが、

そもそも、どのような見え方で上空を通過するのかわからないので、

「え! あれ?」

「あれ?って、どれ?」

「いや、あれでしょ?」

「いや、あれは飛行機でしょ!!」

「あっちだよ!」

「そっち、東だよ!」

なんてやりとりを続けていました。

目に見えて移動している明るい点が “きぼう” だろうと、高ををくくっていたのですが、

5分ほど空を眺めていて思ったのですが、

飛行機がやたらと飛んでいることに驚きました。

しかも、雲も流れていたので、星も動いているように錯覚して見えて、

空中をいろんな点が移ろうて見えました。

たぶん、動画に収めたものが “きぼう” だと思うのですが、

久しぶりに集中して空を眺めていて、空中の状況も変わっていることをあらためて感じました。

詳しい事情や現状を知らないのですが、昼間に世田谷区上空を、航空機や自衛隊ヘリ(と思ったら米軍機?)やセスナ機が飛ぶ頻度が増えています。

胴体がハッキリ見える時もあるし、

このお彼岸に、門徒さんとの会話が打ち消されるほどの爆音でヘリが3機編隊を組んで飛んでいきました。

昼間だけでなく、夜間もいろいろ飛んでいるようです。

“きぼう” よりも現実が見えた夜でした。

2021年3月17日 (水)

倶会一処(くえいっしょ)

2021年春のお彼岸入りの日

お参りにみえた90歳のおじいちゃん。

「副住職、私は、お寺に来るの、もう、これで最後だ。ありがとうね。ありがとう。ありがとう」

私の手を握りながら そう言って帰って行った。

26年前(かな?)、寺に戻ったころは、よく怒られた。

でも、今日は、ありがとう、ありがとうって。

最近、こういう別れ方が増えてきた気がする。

それだけ、年を重ねてきたってこと。

おじいちゃんも年を重ねた。

私も同じだけ年を重ねている。

なんだ、すぐ会えるよ。

阿弥陀様の浄土で。

また会いましょうね。

南無阿弥陀仏

2021年3月16日 (火)

痕跡と生きている

昨日、

普段は思い返すこともないんだけど、

言われた時の風景・状況・言葉の響き、言ったあなたの表情が鮮明に思い出されることがある。

それが「忘れない」ということ。

という文章を書いた。

別の執筆をしながら、ふと思いついたことを綴った。

忘れないことは、大切なこと。

そう思ったのだと、思う。

昨晩、ドラマ「監察医 朝顔」で、

主人公の朝顔(上野樹里)に、松本教授(片桐はいり)が思いを語る場面が丁寧に描かれていた。

人間は、ほんのささやかなことでも、自分にとって大切な人のことを関連づけて思い出せる生き物です。

その人が来たことがあるだけで 自宅に帰るのがつらくなる。

その人と一緒に食べたものを食べれば、その日の光景をありありと思い出す。

その人と歩いた道を歩けば、しゃがみ込んで歩けなくなる。

何てことないものにもすべて人間の生きた痕跡が残っているんです。

残された人間はそういった痕跡と生きていかなければならない。

それは時に幸せでもあるし、今の私にはつらいことです

忘れないことは、時に幸せでもあるし、時につらいこともある。

忘れてしまえるなら、いっそ どんなに気が楽か(忘れることができない)。

そういうこともあることを、ドラマを観ながら思い出していた。

幸せでもあるし、つらくもある。

だから、忘れられない。

2021年3月15日 (月)

忘れないこと 南無阿弥陀仏

もう何年も会ってない人の言葉、すでに亡くなった人の言葉を、

ふと思い出すときがある。

それを言われた時の風景と共に。

“忘れない”ということは、

自分で意識して「忘れないぞ!」と頑張って忘れないでいることとは違う。

普段は思い返すこともないんだけど、

言われた時の風景・状況・言葉の響き、言ったあなたの表情が鮮明に思い出されることがある。

それが「忘れない」ということ。

ふと思った。

であるならば、「南無阿弥陀仏」もまた私のこころとからだに刻まれている「忘れない」こと。

だから、私は「南無阿弥陀仏」と念仏称えることができる。

南無阿弥陀仏

2021年3月14日 (日)

みんな考

阿弥陀の救いの対象は“衆生”・・・すべての生きとし生けるもの。

だから、みんなが阿弥陀に救われる、阿弥陀はみんなを救う ということを今まで書いてきた。

けれど、その「みんな」とは、阿弥陀の眼から見た「みんな」。

私たちが口にする「みんな」とは違う。

私たちが口にする「みんな」は、本当に「みんな」であっては困る「みんな」。

・誰かが得をすれば嫉妬する。

・自分が得をしたときには、そのことに恐縮することもない。

・助けてあげたのにお礼が無ければ腹が立つ。

・こんなに頑張っているのに、私は報われない。
 (頑張っていない あいつが 報われるのは許せない)

・多様性を認めようと言いながら、それはなかなか難しいこと。
 (多様性を認めようとしない人も含めてこその多様性だから)

・世界平和・みんな仲良く・みんな一緒に・絆で結ばれている・・・とは言うけれど、どこか他人事。

・「南無阿弥陀仏」の念仏だけで救われるのはおかしい
 (信仰の篤い人が救われるべきだ)

私たちが口にする「みんな」は、決して全員ではない。

私が抜けていたり、嫌いな人が抜けていたり。

つまり、「みんな」一緒だと都合悪いのが人間。

 ☆

「もしある朝目を覚ますと、全ての人間が同じ人種、同じ宗教、同じ肌の色になっているとしたら、我々は正午までに別の偏見のタネを捜し出すことだろう(ジョージ・エイケン)」

 ☆

人間にとっての「みんな」は、「個人」とか「ひとり」と比べての「みんな」。

相対的な「みんな」。

「みんな」と言ったときに、ひとり一人の人間(いのち)がなぜか抜けてしまう。

大きなカテゴリーとしての「みんな」になる。

つまり、「みんな」と言ったときに、そこから生命が抜け落ちている。

阿弥陀の救いの対象である衆生(みんな)は、絶対的「みんな」。

「個人」とか「ひとり」と比べての「みんな」ではない。

絶対的な「みんな」。

「みんな」とは言うけれど、ひとり一人の人間(いのち)を指す。

小さなカテゴリー「わたし」を、慈悲心で包む。

つまり、「みんな」と言ったときに、ひとり一人の「わたし」を意味している。

 ☆

人間は、他者を排除する心を持つ罪業性に無自覚であり、にもかかわらず「みんな」と言う。

阿弥陀は、ひとり一人の罪業性をすべて見て、すべて背負って、だからこそ「みんな」と言う。

阿弥陀の眼から排除される者はいない。

 ☆

「ひとり」と言ったとき、それは単体としての「ひとり」ではなく、「みんな」を含んでいる。

「みんな」と言ったとき、それは単なる複数の「みんな」ではなく、「みんな」のなかに「ひとり」「ひとり」がいる。

2021年3月13日 (土)

WAになっておどろう

「解散」と聞くと、なぜ不仲が疑われるのだろう?

年を重ねても一緒に活動する道を選ぶ人もいれば、年を重ねてそれぞれに活動する道を選ぶ人もいる。

さらに年を重ねて、また一緒にやろうかといって、共に創作をすることもある。

不仲とか、喧嘩したとか、方向性の違いとか・・・理由を付けたがるけれど、べつに理由もなくその道を選ぶこともあるだろうに。

 ☆

お付き合いしていることがわかると、なぜ「熱愛」と報じられるのだろう?

お付き合い初期の「恋愛温度」(今、勝手に作った言葉)に、冷たいも ぬるいも 熱いも なかろうに。

「熱愛」と報じずとも 熱愛に決まってるじゃないか!

お付き合いが続けば、ぬるくも 冷たくもなるけれど・・・

2021年3月12日 (金)

もはん手紙ペン

アニメのドラえもん、「もはん手紙ペン」のお話を見ました。

人の心を打つ模範的な文章、読みやすく美しい字で手紙を書いてくれるペン。

図鑑を贈ってくれたおじさんに、なかなかお礼状を書けずにいたのび太君に、ドラえもんが出した道具です。

その感動的なお礼状に、ドラえもんも ママも 書いたのび太君自身も感動します。

「早くおじさんに出してあげなさい」と涙を流しながらのび太に声をかけるママ。

あんな素敵な文章が書けるならと、のび太君はしずかちゃんにも手紙(ラブレター)を書きます。

やはり感動するのび太君とドラえもん。

その感動的な手紙を受け取ったしずかちゃんは、駆け足でのび太君の家を訪れます。

「素敵な手紙をありがとう♡ もっとお話ししましょう💖」

のび太君としずかちゃんは公園へデートに行きます。

でも、感動的な手紙を書いたのは、ドラえもんのひみつ道具「もはん手紙ペン」。

のび太君自身の文才でも、言葉の使い方が上手なわけでもありません。

のび太君の話を聞いていて、しずかちゃんはガッカリします。

「どうして そういう話ばかりするの?」

文章に惹かれて のび太君の元に駆けつけたのに、お話のセンスの無さにひいてしまうしずかちゃん・・・。

 ☆

そんなお話を見ていて、長女に尋ねました。

(私)「今の子は、あまり手紙を書いたりしない?」

(妻)「あなた(長女)は、友達に手紙を書いたり、交換日記したりしないの?」

(長女)「しないよ!」とストレートな返事。

メモ用紙程度の紙に書いた手紙くらいはやりとりするそうですが、手紙を書いたり、ましてや交換日記を書くなんてことはないそうです。

「ママは交換日記してたなぁ」
「パパは交換日記してたよ」 (ほぼ同時に感想をつぶやく大人2人)

現代(いま)の子は、メールやLINEでやりとりするのでしょうね。

そもそも、「“交換日記” って何?」かもしれません。

べつに、メールやLINEが悪いということを言うつもりはありません。

ただ、子どもたちに「手紙を書く」という習慣・経験がないんだなぁ・・・と思いました。

でも、今となっては大人も同じことだなぁ。

ちょっと前まで、「メールでお礼を伝えるのは、ありかなしか」なんてことが議論になっていたこともあるのに、今は メールでお礼を伝えることもしなくなりました。

方法・ツールはなんであれ、伝えること、伝える気持ちが大事だと思うのですが・・・。

そういうことを言っていると敬遠される世の中・時代なのかもしれません。

2021年3月11日 (木)

現実と物語

2021年3月11日 東日本大震災から10年

テレビで、東日本大震災の語り部の方の葛藤を知りました。

これからの教訓となれば、津波を甘く見てはいけない、自分の犯したミスを他の人にも犯してほしくない・・・

被災した経験を多くの人に知ってほしいという思いで語るのですが、一命を取り留めた部分の話が人びとの心に残り、“奇跡”の話として受け留められてしまうという葛藤。

そのお話を聞いて、かつてお寺の掲示板に掲げた言葉を思い出しました。

絵心がなくても絵は描けるけれど
 物語(ファンタジー)がなければ人生は描けない
」という言葉。

「宗教に幸せを求める人が多いようだけれど、宗教は幸せなんか与えてはくれない。だけど、物語を与えてくれる。」という書き出しで始まる寺報。

悲しい現実を、 “私を生かす物語” なく生きていけますか!! という思いで掲げた言葉であり文章でした。

“奇跡”という言葉を聞いたときに、その “物語” と結びつきました。

私を生かす物語・・・語り部の方のお話を聞いて “奇跡” と感じた方も、お話に「私を生かす物語」を感じ取られたのかもしれません。

けれど、一命を取り留めることができたことだけ心に留めて「よかったね」「ありがたいね」で終わってしまうのであれば、語り部の方の想いと乖離してしまいます。

これからも、津波だけではなく自然災害は必ず起きます。

その時にどう動けばいいのか! 災害を決して甘く見てはいけない! 自分が犯したミスを繰り返してほしくない! 今私がここにいるのは多くの人びとが私を救ってくれたからなんだ!(人間は助け合いながら生きているんだ!)

そういうことを伝えんとしている語り部の方の言葉を、我がこととして、我が身に起きる現実として受け止めなければいけない。

「物語(ファンタジー)がなければ人生は描けない」というのは、物語だけがあっても人生は描けません。

物語だけでは、逃避になってしまう、幸福追求になってしまう、フワフワした生活になってしまう。

現実があってこその物語です。

現実を直視したなかで、物語は描かれてゆきます。

現実と物語はセット。

語り部の方のお話も、奇跡の物語ではなく、現実をきちんと受け止めたうえでお話、現実と物語です。
(「物語」って、「作り話」ということではなく、「現実に直面しているなかで感じ得て紡がれた話」です。お経もそうですね。)

現実があってこその物語であり、物語があるからこそ現実を直視できる。

語り部の方の葛藤をお聞かせいただき、「現実という舞台にある物語」を想いました。

南無阿弥陀仏

 ☆

YouTube  「2021年3月11日 東日本大震災から10年

2021年3月10日 (水)

区切りと節目

東日本大震災から明日で丸10年を迎える。

報道やSNS上で「10年の区切り」といった表現を目にする。

確かに、物事には区切りも必要だけれど、当事者にとっては区切りなんてものはない。

いつまでも現在進行形。

どれだけ寄り添うことに努めてきても、当事者の苦悩は当人にしかわからない。

“復興” を考えるうえでは、計画的な意味での区切りは必要。

けれど、それもまた 今後へと継続していく歩み。

区切りは、決して終わりではない。

阪神淡路大震災で被災した方にとっては阪神淡路大震災が、

東日本大震災で被災した方にとっては東日本大震災が、

現在のコロナ禍では多くの人の心にコロナ禍における生活が刻まれてゆく。

この時期、報道の濃度は東日本大震災に関するものが濃くなるが、3月10日は東京大空襲(1945年)の日として語り継がれている日である。

東京大空襲のことが思い起こされるという人もまた、多くいらっしゃいます。

私のなかでは、いつまでも長崎大水害(1982年)のときに実際に浴びた降水や滝のような水の流れ、雨が止んだ後の消毒剤を含んだ独特のにおい、給水車に並んだ経験、やっと水が通った銭湯に町の人たちが集まってギュウギュウになりながらも、みんな笑顔でお風呂に入った記憶が残っている。

この記憶は、私のなかでは大切な節目となっている。

節目・・・

「10年の区切り」ではなく、「10年の節目」ではないだろうか。

節目とは、竹の成長とともに表われるもの。

タケノコが、節目もなく伸びていったならば、どこかでポキッと折れてしまう。

あの柔軟なしなりもなくなってしまう。

私たちもまた、年を重ねるとともに節目が からだに、こころに、記憶に表われている。

だからこそ、物事に対して柔軟に対応する術や、辛い記憶がただ辛いだけのものとして刻まれるのではなく、私を生かす力として思い返される。

そうでなければ、経験した悲しみと募る思いに、私は耐えられない。ポキッと折れてしまう。

1年1年の節目があるからこそ、今まで生きてきた、今を生きられる。明日に向かって歩める。

今日は、東京大空襲から76年目の節目を

明日は、東日本大震災から10年目の節目を迎える。

節目があるからこそ、これからへと伸びてゆく。

南無阿弥陀仏

2021年3月 9日 (火)

真宗大谷派 配信のご案内

浄土真宗live(←クリック)

  2021年3月19日(金) 20時~

  佐野明弘師(石川県 光闡坊住持)

   「光と影ー人間意識の実相ー」

〇真宗本廟(東本願寺) 春の法要(←クリック)

  2021年4月1日(木)~4日(日)

〇真宗本廟(東本願寺) 「真宗本廟お待ち受け⼤会・本廟創⽴七百五⼗年記念⼤会」(←クリック)

  2021年4月4日(日) 13時30分~17時

  2021年4月5日(月) 10時~12時30分(予定)

2021年3月 8日 (月)

ねたむこころ

人間は、嫉妬(しっと)や嫉み(ねたみ)でできている。

物であったり 名声であったり 評価であったり、自分が手に入れられるものは全部欲しいし、

他の人が手に入れるとなれば、素直に喜べない。

何でだろう? と考えた。

自分が欲するものは、元々の数が、総量が、分量が決まっている。

仮にその数を100とするならば、

50も60も手にする人もいれば、もしかしたら100手にする人もいるかもしれない。

ということは、20、10、5、3、1しか手に入らない人もいるということ。

0の人もいる。その方がはるかに多い。

手にすることのできる量に差があれば、当然嫉妬や嫉みも起こるだろう。

仮に、その量が適正であったとしても、嫉妬や嫉みは起こる。

人間はみんな平等のはずじゃないのか、と。

仮に、総量をみんなで均等に分け合えば、それもまた嫉妬や嫉みの元となる。

なんで頑張っている私と、怠けている あいつが同じ分量なんだ! と。

けれど、衆生(すべての生きとし生けるもの)に満杯の量を与えるものがある。

与えられているものがある。

それが阿弥陀の慈悲。

阿弥陀の慈悲は、仮にその数を100とするならば、

衆生ひとり一人に100、100、100・・・の分量の慈悲を注ぎ続けている。

みんなに100。

話が破綻している? 

否、だから阿弥陀の慈悲は“不可思議”。

人間の思議を超えている。

ひとり一人のいのちが、阿弥陀の慈悲の大きい海に摂め(おさめ)取られれば、阿弥陀と一味となる。

阿弥陀の慈悲は、仮にその数を100とするならば、衆生と一味となっても100のまま。

不思議 不思議

それでもまだ、人間は嫉妬し嫉む。

私だけを見ていて欲しいと。

 ☆

凡夫(ぼんぶ)というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず・・・
(親鸞聖人『一念多念文意』)

2021年3月 7日 (日)

今への問いは、以前への問い

「このコロナ禍で、門徒さんと膝と膝を突き合わせることができません」という声をよく耳にするようになった。

で、思う。

コロナ禍以前、門徒さんと膝と膝を突き合わせる関係を結んできただろうか。

もし関係を結んできたのであれば、このコロナ禍においても、コロナ禍相応の関係の結び方が自然と行われることだろう。

つまり、「膝と膝を突き合わせることができません」という吐露は、「コロナ禍以前、関係を結ぶ努力を、教えを伝える努力をしてきただろうか?」という自身への問いとして受け止めるべきこと。

法要の形態、法話会の開催の可否は変わってしまったけれど、門徒さんはお墓参りにみえる。

今まで法話会や報恩講にほとんどの門徒さんが聴聞してくださっていて、その仏法聴聞の場がなくなってしまったのであれば、「膝を突き合わせる場がなくなってしまった」という嘆き節も出るだろう。

けれど、このコロナ禍において、人と人との行き来が完全にシャットアウトされたわけではない。

お寺に来てもらう形での法話会は開けないけれど、教えを届ける術を失ったわけではない。

手紙もある、寺報もある、法話のネット配信もある。

「教えを届けるんだ!」と構えなくても、「体調崩されていませんか?」と電話をすることだってできる。

出来なくなったと嘆くより、

出来ていただろうか?と問い、

今 出来ることを考えたい。

2021年3月 6日 (土)

厄介

物事には「陰」と「陽」がある。

どこから見るか、どのような見方をするか、いつ見るかなどで見え方は「陰」にも「陽」にもなる。

ふと思う・・・

「陰」が「陰」のまま、「陽」が「陽」のままならいいのだけれど(わかりやすいのだけれど)、

厄介なことに

人が何を思い、何を志し、何を企んでいるかで、

「陰」が「陽」にもなるし、「陽」が「陰」にもなる。

人の性格も、

対応する物事、相手、気分によって「陰」にも「陽」にもなる。

人間って、厄介だ。

2021年3月 5日 (金)

業縁存在

「業(ごう)」は過去

「縁(えん)」は未来

「業縁(ごうえん)」は現在

上記、昨晩「業」と「縁」とはなんだろう・・・と考えているうちに、ふと思いついたこと。

教学的根拠はありません。

2021年3月 4日 (木)

後世に希いを託し

書道家、美術家、随筆家の篠田桃紅(しのだ・とうこう)さんが、2021年3月1日 亡くなられた(107歳)。

だって偽物を作るっていうことでしょう。それがうまいとお点が良くなるって、変じゃない

影響を受けてただ真似るのは横着な人生。自分はどう考えるのか、手探りで求める

手本を真似るだけの習字に違和を感じるなど、決まりごとにとらわれず独創的創作を生涯続けられた。

100歳を超えて刊行したエッセー集が人気になると、

話題になるのは、私が珍獣だからでしょ。この年の人が何を考えているのか、みんな知りたいのね

私はみんなが珍獣であればいいと思う。人のことなんか気にしないで、自分なりのやり方を通せばいい

と笑ったという。

満開だけが花、満月だけが月ではない

という言葉も残されている。

誰もが「美しい」と口にするものを、私も「美しい」と口にするとき、果たしてそのものの姿をきちんと見ているだろうか。

そんなことを想う。

南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

篠田桃紅さんと日野原重明さんの「SWITCHインタビュー 達人達」(NHK 2016年1月9日放送)は刺激的でした(そのうち再放送されないかな)。

撮影当時、篠田さん103歳 日野原さん104歳。

お二人から学ぶことは多い。

けれど、学ぶだけで終わるのではなく、自分はどう思うのか、自分はどう動くのか、そのことが先輩方から私たちへ託されている希い。

2021年3月 3日 (水)

記憶

人って、思いだしたくない事は都合よう忘れるもんやな
 〔NHK 朝ドラ「おちょやん」2021年3月3日の放送 天海一平のセリフより〕

ちょうど同じことを考えていたので、一平のセリフがズシッときた。

人って、思い出したくない記憶は、都合よう書き換えてるもんやなぁ・・・

2021年3月 1日 (月)

2021年3月のことば

花粉症に悩む方とお話をしていると、心和むのはなぜだろう?
話が合うって楽しい。
わかってもらえるって嬉しい。

 🌸 🌸 🌸

2021年3月のことば

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足を踏まれた痛みは、踏まれた者にしかわからない。

その私が、他者(ひと)の足を踏んでいる。

親鸞聖人と唯円房との会話

私のなかに善良な心が起こるのも、そうなるべき縁がもよおしてのことである。
私のなかに悪しき心が思い立つのも、そうなるべき縁のはからいによってのことにほかならない。

親鸞聖人は教えてくださいました。
「兎や羊の毛の先に付いている程度の小さな塵(ちり)。その塵ほどの小さな事柄をなすことでも、すべて私の思いを超えたはたらきが因縁となってなされたものである。そのことを深く自覚するべきである」と。

 

親鸞聖人と弟子の唯円房は、次のような会話を交わしています。

(親鸞)
「唯円、あなたにひとつ尋ねます。あなたは、私親鸞の言うことを信じますか」

(唯円)
「言うまでもありません」

(親鸞)
「それでは、私の言うことならば どのようなことでも背かないのですね」

(唯円)
「伏して申し上げます。仰せに従いますこと、言うまでもありません」

(親鸞)
「であるならば・・・唯円、人を千人殺してきなさい。そうすれば、あなたの往生は約束されることでしょう」

(唯円)
「し、親鸞さま、いくら師の仰せとはいえ、この私の力量においては、たとえ一人の人間であろうとも、殺すことなどできるはずがありません」

(親鸞)
「さて、どういうことですか。先ほどあなたは、私の言うことを信じ、背かないと言ったではないですか」

  ―沈黙―

(親鸞)
「これでわかったでしょう。どのような事柄であっても、自分の思いのままになせるのであれば、師から“人を千人殺してきたならば往生は約束されます”と言われたならば、本当に人を千人殺すこともできるでしょう。しかし、たとえ一人でも殺す縁がもよおさなければ、殺すことなどできないのです。そのことは、自分の心が善良だから殺さないのではないのです。また、殺すことがいけないことだと思っていても、百人、千人を殺すということだってあるかもしれません。

そうなるべき縁がもよおすならば、私の思いとは違う振る舞いだってしてしまうものなのです。それが人間、それが私です。そのことを決して忘れてはいけません」
     (『歎異抄』第13章より)

さるべき業縁のもよおせば

「そうなるべき縁がもよおすならば、私の思いとは違う振る舞いだってしてしまうものなのです」という聖人の教え。

その教えに対して、あなたは何を思いますか?

「人殺しは悪いことです。たとえ縁がもよおしても、私は人殺しなどしません」

「たとえ縁がもよおしたとしても、強い心を持っていれば人を殺すことなど回避できます」

そのような声を聞いてきました。

純粋な思いなのかもしれません。

けれど、そのように思うのは、聖人の教えを、まだ犯していない未来の話のつもりで聞いているからかもしれません。

その態度はつまり、教えを他人事として聞いているということでもあります。

聖人が説かれるのは未来の話でも、仮定の話でも、悪事を避けるための教訓でもありません。

また、ただ単に「縁に生きている」ということを伝えようとされただけの話でもありません。

縁に生きているとはどういうことだろうか。

たとえば、無数のいのちが生きるこの地球上において、有り得ないほどの偶然によって出会った人びとがいる。
出来ることならば、せっかく出会った人びととの関係を大切に生きたい。
しかし、特定の者との関係を大切に生きるということは、そこから漏れる者がいるということ。
関係を大切にしたいと思った者どうしが、いつまでも良好な関係でいられればいいけれど、そうはいかない。
関係が深いからこそ憎しみも深くなるということがある。

自分の思いのままになせるのであれば、わざわざ誰かを傷つけることはしない。

けれど、縁に生きている。

つながり合って、影響し合って、派生し合って生きているということは、
誰かにとって良い縁がもよおしたとき、誰かにとって悲しい縁が生じているということ。
誰かの苦労のおかげで、誰かが楽を享受しているということ。
誰かのために手を差し延べているそのとき、私の足は誰かを踏みつけているということ。

誰かのためにかけた言葉が、その人の心に届いて、はげみとなることがある。
また、同じ言葉をかけて、傷つく人もいる。
言葉は、人を助けもすれば傷つけもする。
助ける言葉と傷つける言葉があるわけではない。

私は、踏まれた足の痛みは忘れない。
踏まれた事実を忘れない。
けれど、自分が誰かの足を踏んでいるということを自覚することは、ない。

親鸞聖人が唯円に語った「縁に生きる」ということ。
それは、自分自身が今、現に悲しみを生み出しているということ。
そのこともつらく悲しいけれど、他者の足を踏んでいる自覚のない私は、悲しみを生んでいる事実を知らない。
足を踏まれている人の痛みを知らない。
そのことが悲しい。

そのような私であることを忘れないでほしい。
その自覚において、阿弥陀如来が私と共にあることが聞こえてくる。

南無阿弥陀仏

 🌸 🌸 🌸

掲示板の人形
2匹のイヌ🐕🐕
だいぶ毛羽が立っているけれど、娘たちが小さいときから一緒です。
Dsc_5943

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