見と観
スイミングに通う娘
一緒にレッスンを受けている子で、メチャクチャ早く泳ぐ子がいるらしい
「その子が、なんでそんなに早く泳げるのか、観察してごらん」と言ったら、
「目が悪いし、早くてよく見えないんだよ」とのこと。
確かに、プールではメガネを外すから見えなくて当然だけど、見えたからと言って、うまく泳げるわけでもない。
“見る”というと、漠然と、注視はしなくとも見えるものを見ているだけのこと。
けれど、観察の“観”は、観察対象の奥にあるもの、より内面にあるものをもよく観ることをいいます。
泳いでいる人の姿を見て、そこから学び取ることもあるでしょう。
でも、早く泳げる人が、普段どのような努力をしているのか、どのような食生活をしているのかなど、泳いでいる姿だけではなく、見えない部分の努力を知ることも、“観る”ということです。
目の前にいる人の顔色を見て、「今日は元気そうだ」とは思っても、その人の言動を観察していると、なにかおかしい。
悲しいことがあったのかな、怪我でもしたのかな、体調がおかしいのかな・・・ちょっと見ただけでは変化に気づけないけれど、よく観ていると気づくことってあります。
「観察」は、今は「かんさつ」と読みますが、仏教語としては「かんざつ」と読みます。
阿弥陀如来を、阿弥陀如来の浄土を思い浮かべ、念仏申すことを言います。
修行のひとつです。
今、「観察(かんさつ)」とか「観光」とか「(試合)観戦」とか言いますが、
さすがに、それらは修行ではありませんが、
ただ調べるだけ、ただ出かけるだけ、ただ応援するだけでは「観察」「観光」「観戦」と言うには足りないのです。
調べた結果、出かけた結果、応援した結果、何がわかったのか、何を得たのか、試合している人たちの努力苦労を感じたのか・・・
あるいは、更なる目的や疑問が生じたのか・・・
そういうことがあっての「観察」「観光」「観戦」であり、
そういうことのために「観察」「観光」「観戦」をしようと欲するのが人間なのかもしれません。
日常の生活においても、ただ見るだけではなく、観察するということを意識してもいいのかもしれません。
今まで見えていなかったものが見える。
今まで気づけなかったことに気づける。
そういう意味では、同じ日常、退屈な日常、何もない一日なんてありません。
「観察(かんざつ)」とは、阿弥陀を観ることであるとともに、一日一日を、目の前の出来事をしっかりみなさいという呼びかけなのかもしれません。
南無阿弥陀仏
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