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2021年2月25日 (木)

孤独

ニュースで「望まない孤独による孤独死が増えている」と報じていた。

先ず、「望まない孤独」って おかしな表現だなと思った。

「望んだ孤独」もあるということだろうか。

察するに、この外出もはばかられるコロナ禍にあって、身も心も頼れるものを失っている状況を「望まない孤独」と表現しているのだろうか。

「望まない孤独」から死に到る人が増えている・・・

  ☕

「望まない孤独」に対して「望んだ孤独」と表現した。

私は、孤独を愛している。

実際、現在進行形で孤独を感じてもいる。

というか、「孤独」は私の身の置き場であると落着している。

そこに落着すれば、

誰からも相手にされないことを淋しく思わないし、

誰にも評価されなくても落ち込む必要がないし、

周囲の反応や評価や評判を気にしながら自分の行動を選択しなくていい。

と、自分で書きながら思った。

こういう人は、自分の中だけでは快適に生きているつもりかもしれないが、周りの人間にとってはたいそう迷惑な存在だ。

問題児だった頃の私に関わってくれた私に、今更ながらお詫びと感謝の気持ちが湧いてきた。

「問題児だった」って、過去形じゃないだろう! という突っ込みが入りそうだけど。

 ☕ 

さて、「孤独」を愛しているなんて書いたけれど、そんなこと書ける人は「孤独」ではないんだろうな、ということも分かっている。

だからこそ、ニュースで報じている「望まない孤独による孤独死」を選んだ人びとは、心底孤独を感じ、孤独に恐怖し、孤独から逃げたかったのだと思う。 

「孤独」というと、「ひとり」を想像するけれど、必ずしもそうではない。

「ひとり」の認識は、複数人いるからこそ感じられる。

複数人いる中で、疎外感や、ここにいても面白くない感や、誰とも話が合わないや感などがあるからこそ、「独り(ひとり)」を感じる。

1人部屋にいるときに感じる「ひとり」感はホッとできるのだけれど、複数人いるなかでの「ひとり」感は、淋しくて、冷たくて、つらい。

 また、「独り」という意味の孤独ではなくて、「先行きが見通せない」恐怖や、「その先行きの見通せなさを背負っているのが自分だけかもしれない(自分だけに違いない)」と感じる孤独もある。

 ☕

このコロナ禍、現在(いま)、私は寺に戻って家族と共に暮らしている。

だからこそ、書きたいことを思いつくままに書くことができるのかもしれない。

もし京都で一人暮らしをしているときに、現在のコロナ禍のような状況に身を置くことになったら・・・

やはり「孤独」に陥っていたかもしれない。

学生時代、現在のコロナ禍に身を置くことはなかったが(あ、でも阪神淡路大震災は経験しているんだ)、「もう どうしようもない」と思うときは、ご本山(東本願寺)に行き、親鸞聖人の御影の前に長い時間身を置いていた(阿弥陀さんじゃなかったんだなぁ)。

ひとり暮らしをする私に、坊守(母)は 三つ折りご本尊を持たせてくれた。

阿弥陀さまは本棚に置き、毎朝手を合わせていた。

手を合わせる対象(阿弥陀さま 親鸞さま)がいる

口から発する「南無阿弥陀仏」

本当に「孤独」に陥ったら、何らかの行為をなすということもしなくなる。

けれど、手を合わす対象がいる、口から発する言葉がある・・・行為をなすということは、孤独ではないことの証明。

ご本尊(阿弥陀さま)に向かって手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と称えてほしい。

南無阿弥陀仏

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