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2021年2月15日 (月)

透明な滴

「東京新聞」朝刊 2021年2月13日(土)コラム「筆洗」

菜の花畠(ばたけ)に入日(いりひ)薄れ−。唱歌「朧(おぼろ)月夜」を歌う声に司馬遼太郎さんは「それ何の歌だ」と尋ねたそうだ。菜の花が大好きな司馬さんのためにと歌ったのは作家半藤一利さんである。小学校に通う代わりに図書館に入り浸ったせいで有名な唱歌を知らなかったとは、長いつきあいの半藤さんの見立てだ▼人がコーヒーを一杯飲む間に司馬さんは300ページほどの本を3冊読み終えていた。唱歌の話に片りんがみえる「神がかった」読書の量と力、取材や知識への熱意の人であったそうだ。「資料を読んで読んで読み尽くして、そのあとに一滴、二滴出る透明な滴(しずく)を書くのです」という言葉とともに半藤さんが書き残している▼司馬さんが亡くなり25年たった。12日は命日「菜の花忌」である。「半藤君、俺たちには相当責任がある。こんな国を残して子孫に顔向けできるか」。没する一年前に語ったという▼憂えていたのは、ひたすら金もうけに走り、金もうけに操られるような社会だった。「足るを知る」の心が大切になると、世に語りかけようとしていた▼憂いは過去のものになっていないだろう。災害、経済の混乱、疫病の流行・・・。司馬さんなら何を語るかと思うことも多い四半世紀である。憂いをともにし、後を継ぐように昭和を書いてきた半藤さんも他界した▼著作の中に、残された滴に、声を探したくなる菜の花忌である。

 ☆

資料を読んで読んで読み尽くして、そのあとに一滴、二滴出る透明な滴を書くのです

という言葉に、本当にそのような意識で資料や本を読み、書き続けた人 司馬遼太郎さんの真髄が凝縮されているように感じました。

司馬さんが原稿を書く際、その時代に関する書物が神保町の古本屋街から消えたという伝説を聞いたことがあります。

それだけ資料を集めていたことの譬(たと)えとして受け止めていましたが、コーヒー1杯中のエピソードを聞くと、資料を買い漁り読み尽くししていたのも「さもありなん」と思いました。

私は、資料の上っ面だけを読んで(見て⁉)、何杯にも薄めて書き物をしていました。恥ずかしい限りです。

こんな国を残して子孫に顔向けできるか

司馬遼太郎さんの目に映る“こんな国”とは、どのような国だったのでしょう。

金もうけに走り、金もうけに操られるような社会」では、人を人として見ることはありません。

「人材(じんざい)」という言葉が一般的に使われますが、「才能があり、役に立つ人物」という意味です。

人を人間として見ているのではなく、人を資材として見ている言葉です。

使える奴か使えない奴か、利用できる奴かできない奴か、自分の思いのままに動く奴か逆らう奴か・・・

資料を読み尽くして、そうして滴り出る一滴、二滴を書く。

人との接し方も、本来はそうあるべきなのだと思います。

人と話していて、人の書いたものを読んで、その人が本当に伝えたいことって、そのなかのほんの一滴二滴に凝縮されている。

それを感じ取る。

忙しい世の中、余裕のない世の中では、そういうことを感じ取る余裕がありません。

でも、その作業こそが、後の世を生きる人を育て、後の世を作っていくのだと思います。

足るを知る」にヒントがあるのかもしれません。

無いピースを埋めよう埋めようとするけれど、手元には、私の周りには既に必要なものが足りている、大切なことが満ちている

南無阿弥陀仏

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