「つまらない」と「知らない」は違う
昨日は、司馬遼太郎さんの「資料を読んで読んで読み尽くして、そのあとに一滴、二滴出る透明な滴を書く」エピソードを紹介しました。
今日は、天狼院書店にお勤めの川代紗生さんが書かれていたお話から・・・
「未知のジャンルでも本を10冊読めば大枠を掴むことができる」
この言葉は、彼女が社長から教わったものであり、その教えを実践されています。
「天狼院書店」は、書店とはいっても本を売っているだけのお店ではなく、いろいろな催しをされています。
勤めている方々は執筆活動もされています。
それゆえに、未知のジャンルについて書いたり、知らない世界に触れたりする際、そのジャンルの本を10冊読めば大枠を掴むことができると、社長は教えられたのだと思います。
彼女は、未知の世界についての「つまらない」「興味がない」の判断は、先ず10冊本を読んでみて判断するようになったと言います。
それが習慣づいてみると、「つまらない」と感じる原因は「知らない」ことから発生していることがほとんどで、10冊読んでみると「つまらない」と感じることはほぼなくなった、と綴られています。
「つまらない」と「知らない」は違うのだ!と、彼女は教えてくださっています。
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温かい気づきです。
はじめから「つまらない」「興味ない」といって未知のジャンルとの距離をとることは、自ら「つまらない」人生へ歩を進めているようなものです。
未知のジャンルの本をピックアップして読むこと自体大変なことではありますが、「知ろうとする」ことで、自分の中のキャパシティーが広がっていきます。
今まで見えていなかったものが見えてきます。
司馬遼太郎さんも、書こうとしている時代のすべてを知ったうえで小説を書こうとされたのではなく、知らない時代についても筆を執られていたことでしょう。
その際、それこそ古本屋街の関連書籍を買い占めるほどの本を読み、その世界、その時代、そのジャンルに思いきり踏み込んで行かれたのだと想像します。
本は、自分の知らない世界を見せてくれます。
本は、有限ないのちを生きる私が、生きているうちに触れられなかったであろうものを感じ取らせてくれます。
ネットもそういう性質があるとは思うのですが、
結局自分の興味関心の範囲でしか、自分の思想の許容できるものしか目にしません。
「ネットの発展・発達により情報が溢れている」などという言い方がされますが、私の方のキャパシティーが狭いので、その情報を処理できません。
自分にとって美味しいものをつまみ食いして終わりです。
本も、手にしなければ当然読むことも知ることもできませんね・・・あぁ、司馬さんも 川代さんも、川代さんの社長も、“書く”という必然性があったからこそ、本を手にされたのですね。
“書く”ことは、自分と向き合うことにもなりますし、現実逃避にもなります。
矛盾したことを言っているようですが、つまりは、気持ちの整理をしているということ。
書くことが、自分の内面を見つめる方面に向かう人もいるし、現実から逃避する方面に向かう人もいる。
現実から逃避するには、現実を認識しなければ逃避できません。つまり、現実に向き合うということです。
書くことは、自身を見つめること、現実を見つめること。
すると、今まで見えていなかったものが見えてくる。
自分一人の殻に籠っていたつもりが、自分の周囲にある壁にぶつかっていたつもりが・・・殻も壁も自分の一部、世界のほんのひとかけらに過ぎないことも見えてくる。
気が向いたときに書いていたこのブログ。このコロナ禍にあって、読んでくれる人にとって少しでも気が紛れる時間になればいいな、と思って毎日書き始めて間もなく一年。
あぁ、読んでくださる方のためのブログではなかった!
書いている私自身が、書くことによって気持ちを保っていたんだ!
そういうことに、ある日気づきました。
だから、好き勝手書いてます (^∀^)
書くためには、やっぱりいろんなもの読むんです。
「知ること」は、「つまらない」から抜け出す道です。
南無阿弥陀仏(‐人‐)
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