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2021年2月 1日 (月)

2021年2月のことば

2021年2月のことば 法話YouTube

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毎月毎月、寺報を早く作ってしまおうと思っているのに、
毎月毎月、月末に焦っている。
1月は、ずっと書き続けていたのだけど、なんか違う(納得いかない)。
月の終わりの日になって、ゼロから書き直す。
で、書けてしまう不思議(内容の良し悪しは別の話として)。
でも、それまで悩みながらも書いていたから、書けるんだろうなとも感じる。
悩み続けること、試行錯誤し続けることは、私の中で蓄積されていく。
蓄積されたものがあるから、なんらかの形となって表れてくる。
今から3月号を作ろうかなと思っても、出来ない不思議。
南無阿弥陀仏(‐人‐)

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2021年2月のことば

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良き日 悪しき日 言う勿(なか)れ。
今日一日の有り難さ。
       金子大榮

良き日 悪しき日 言う勿れ

先ずは伝えたい。
日に、良き日 悪しき日などないということを。
限りあるいのちを生きていながら、どうして日の良し悪しを理由として自分の行動を制限するのだろう。

そして考えたい。
良き日 悪しき日 言うときに、誰の顔が浮かんでいるのかを。
自分や、自分に身近な人たちにとっての良き日 悪しき日ではないだろうか。

この世のすべてのいのち、すべての事柄は、縁によって起こるとお釈迦さまは説かれました。縁によって起こるということは、縁によってつながっているということ。

であるならば想像したい。
縁によってつながっているのだから、
自分にとって良いことが起こるそのとき、つらい思いをしている人がいるということを。
自分にとって都合の悪いことが起こるとき、同時に利益を享受している誰かがいるということを。

良き日 悪しき日 言うけれど、混然一体の世の中には、良いも悪いも同時に起こっている。自分や身近な人だけで収まる話ではない。
新型コロナワクチンが開発され、その接種が始まっている。ワクチンを持つ国持たない国、お金のある国 貧しい国。いのちに関わる事柄を利用して、権力争いの駆け引きが始まっている。
良いも悪いも、私から離れたどこかにあるわけではない。私も含めて、禍福織りなされた世界が起こっている。

からだは休むことなく活動している。いのちはみな懸命に生きている。良き日 悪しき日など考える暇もなく。

かなしきかなや

日に良し悪しなどないということを、多くの人はわかっているのだろう。けれど、世間の常識とされている事柄に異議を唱えることもはばかられるし、もし悲しい出来事に遭おうものなら、日の良し悪しを無視したからではないか?と不安に陥ることも否定できない。

親鸞聖人はその悲しみを説かれた。

かなしきかなや道俗の
 良時吉日えらばしめ
 天神地祇をあがめつつ
 ト占祭祀つとめとす
   (「正像末和讃」)

 (試訳)
 今の世を生きる僧侶も世間の人々も、
 良い時・吉日をえらぶことに囚われて、
 天の神・地の神をあがめながら、
 占いや祭祀に努めています。
 なんともかなしいことです。

限りあるいのちを生きているにもかかわらず、迷信に心惑わしながら、我が身の行いをえらんでいる。心の痛むことである、と。

今日一日の有り難さ

このコロナ禍、外出することも、外食することも、旅行をすることも、人に会うことも制限されている。

テレビを見ていると、街頭インタビューでこのように応える声を耳にするようになった。
「今まであたりまえと思っていたことが、実はありがたいことだったんだなぁと思うようになりました」と。

大切な気づきです。今、この言葉の背景をじっくりと考えてみたいのです。でなければ、新型コロナが収束した折に、ありがたいと実感した事柄も、いとも簡単にあたりまえのことにしてしまうのですから。

街の声で聞こえる「ありがたいこと」とは、その人だけに(そう思えた人だけに)起きた事柄でしょうか。

私たちが普段口にする「ありがとう」は、個人的な喜びや感謝の表われであり、普遍性はない。一過性のものであり、持続性もない。

けれど、街の声で聞こえる「あたりまえと思っていたことが、実はありがたいことでした」と気づかされた、その「ありがたいこと」とは、すべての人びとの身に今までずっと起こっていた事柄。

「あたりまえにしていたことが、ありがたいことでした」と思えた人にだけ、ありがたい出来事が起こったわけではありません。今まで生きてこられたのは、ありがたいことの積み重ねだった。それが、縁に生きるということなのでしょう。けれど、ありがたいことも積み重なると、人間はあたりまえのこととして錯覚してしまうのです。

あたりまえと思っていたことが、実はありがたいことだった。

ありがたいと思ったことは、実はあたりまえのように私を慈しみの心で包み育ててくれていた。

「ありがとう」と「あたりまえ」は、正反対の事柄ではなく、同義の事柄であると思うようになりました。

ありがたい事柄とは、特定の誰かに起こるものではなく、すべての人に起こる普遍的であり持続性のある事実。

特定の人だけが蒙る利益ではなく、すべての人びと、すべてのいのち、すべての事柄を包み込むはたらきがある。

だからこそ、本当に有ることが難い。

「今日一日の有り難さ」と言われても、つらいこと、悲しいこと、思い通りにいかないことがあれば、「今日はなんて日だ」「今日はついてない」という思いに支配されてしまう。私の思いとしては、とても「ありがたい」なんて思えない。

けれど、私が「ありがたい」と思えなくても、有ることの難いはたらきに、あたりまえのように包まれている。だからこそ、さまざまな出来事に遭うなかでも、からだは、いのちは生きようとしている。

有り難い縁によって「南無阿弥陀仏」と称えるとき、すべての人々を、すべてのいのちを、えらばず、嫌わず、見捨てることなく救うと願われた阿弥陀の慈悲が、あたりまえのこととして我が身を包んでいることに気づかされる。

合わせる手に温もりを感じつつ 南無阿弥陀仏

 ☕ ☕ ☕

掲示板の人形
だいぶ昔、
京都で買ったウサギの(お手玉の)人形と、
長崎(ハウステンボス)で買ったチューリップの人形(“ちゅーりー”と言うらしい💖)。

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