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2021年2月20日 (土)

私から念仏の声が出るということは、すべての人から出るということ

若くして亡くなった人に向けて、「まだ早すぎるよ」「もっとお話ししたかった」「これから、より一層の活躍が望まれたのに」などという声を聞く。

気持ちとしては分かるけれど、違和感もある。それでいいのだろうか?って。

なぜ早すぎると思うのか、なぜお話したかったのか、なぜ活躍が望まれたのか・・・

その人から受け止めた、大きなメッセージが、はたらきがあったからではないのか。

であるならば、受け止めた者の責任として、なすべき何かがあるのではないか。

悔やんで終わるのならば、「まだ早すぎるよ」と言って終わってしまっては、その人の死を、いや生を踏みにじることになる。

その人の分まで生きる。なんて意味ではなく、

その人から相続した メッセージを、はたらきを、私は胸に留めて生きるべきではないか。

そのメッセージを、はたらきを、親鸞聖人から「南無阿弥陀仏」と教えていただいた。

「南無阿弥陀仏」とともに生きる道を、亡き人は示された。

それだけで、先行く人はその生涯において大きなお仕事をされた。

「より一層の活躍を!」どころではない大きなお仕事を。

 ☆

人間は、長い短いの尺度で物事を見てしまう。

それゆえに、「早すぎるよ」という思いに覆われてしまう。

しかし、自然の尺度、阿弥陀の眼から見れば、長いも短いもない。

かけがえのないいのちが、確かにあったという事実があるだけ。

長い短い、貧富の差、地位の上下、宗教の違い、性差・・・人間の意識からは大きな違いとなって表れ、そこから争いも起こる。

けれど、

大きなはたらきからすれば、

先行く方が示してくださった「南無阿弥陀仏」の仏道を歩めば、

先行く人の姿から、「どうして?」という悔恨や疑問で留まるのではなく、「私もやがて」という自覚があれば、

人間の尺度が錯覚を起こさせている違いや差に、そもそもそんなこと有り得ない!という眼が開かれてくる。 

「南無阿弥陀仏」は、私の口からも称えられるのだから。

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