南無阿弥陀仏 生涯をかけた歩みに、人生の意義がある
信仰と生活ということが常に問題となっている。そうして生活に交渉のない宗教は無用のものと常識されている。しかし、信仰を強調するものは時には生活を度外視する。佛法のためには世間を捨てよということも教えられた。説教場は人事相談所でないにちがいないといっても、その信仰がなんら生活に交渉がないということは果たしてあり得ることであろうか。
宗教を求むる人は、信心を得たいという。この求道の心理にはいろいろと批判もされ、反省もしなければならないものがあるであろう。だが、その真剣さに対しては、十分に尊重されねばならない。それは、確かなる世界観を得んとする悩みである。そのためには名師をも訪ね、聖教にも親しまねばならない。しかし、名師も聖教も信心獲得の縁とはなっても、直接に信心を授与するものとはならないであろう。青年は熾烈なる感情をもって「人生の意義」を問う。しかし、生涯かけてもその答えを見出さそうとすることこそ人生の意義ではないであろうか。「これでこそ生まれ甲斐があった」という喜びは、そう性急に感得されるものではない。(金子大榮 金子大榮随想集 第6巻「私の人生観」)
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近年「生活の中の仏教」というような表現を耳にする。
恐らく、
仏教離れ 宗教離れなどと言われて久しく、
お寺で開催される法話会に人は来ないけれど カルチャーセンターなどで開かれる“仏教講座”は満席になり、
今は仕事が忙しいので、リタイアしたら仏教をちょっと学んでみようかな
などという言い方がされるようになった時代に、
「仏教は日々の生活から離れて聞くものではありません。私たちが生きているそのなかに仏教はあるんですよ」というメッセージなのだと思う。
お釈迦さまは、出家されて修行をしたから、生活と離れてからの修行(歩み・学び)に違いはないけれど、
結局は、人と人とが生活する場に戻ってきて、教えを説き広められた。
やはり、仏教は生活の中で聞いていくもの(生活の中でしか聞けないもの)だと思う。
そもそも“信仰と生活”は切り離せるものではないのだけれど、
仏教を真摯に真剣に必死に学んでいる者からすると、どっぷり日常生活を生きている ちょっと仏教を聞きかじった者が「信仰」を口にすること(「生活の中の仏教」というフレーズ)は気に入らないことだろう。
(そういう態度はつまり、仏教を真剣に学んでいるといっても机上の学びに過ぎないのだけれど)
かといって、「仏教(宗教)の学びが、生活の役に立つ」「人生相談のために仏教を聞く」と、生活と信仰を一緒くたにして、日々の悩み事相談とその解決を仏教に求められても、それは違う。
信仰と生活を、交渉(接点)があって当然という前提で考えるのも間違うし、かといって切り離して考えられるものでもない。
☆
「宗教を求むる人は、信心を得たいという。この求道の心理にはいろいろと批判もされ、反省もしなければならないものがあるであろう」
信心を得たいという求道の心理に対して、批判・反省がなされてしかるべきであると言う。
そう言わしめる時代背景には、何があったのだろう?と想う。
「信心」とは、短絡的に得られるものではない。
否、信心とは、そもそも娑婆世界を生きるわれらに得られるものではない!ということではないだろうか。
「青年は熾烈なる感情をもって「人生の意義」を問う。しかし、生涯をかけてもその答えを見出さそうとすることこそ人生の意義ではないであろうか」
人生の意義や意味を問う、求める人は多い。
けれど、人生の意義や意味は、その答えを得て終わるものではない。
「これが人生の意義だ、生きる意味だ!」と思えたとしても、それは生きている中での出来事次第で、コロコロ変わる。
自分の思いは、外からの要因(縁)次第で、いとも簡単に崩れてしまう。
「これが人生の意義だ、生きる意味だ!」と思えるものに、もし本当に出会ってしまったならば、そのことによって安心を得られるものではなく、重たい決意・信念を抱いて生きていくことになる。
そこに仏教(教え)がないならば、「これが人生の意義だ、生きる意味だ!」と思えるものに本当に出会ってしまったとき、生きる寄る辺(支えとなるもの、共にあるもの)がないのだから、“私”はフラフラになり、つぶれてしまうだろう。
もし、仏教に聞く(教えにふれる。親鸞聖人の教えにふれる縁に出会ったのであれば「南無阿弥陀仏」と念仏申す)ことがあれば、
フラフラになることなどない。
なんてことはあり得ない!
信仰があってもなくても、人は悩み、苦しみ、時には微笑むこともあり、またつらい思いをする。
そういうなかを生きている。
そういうなかを、教えに出会えたからこそ 念仏があるからこそ、人生の意義や意味(なぜ生まれてきたのか、どうして生きるのか)をたずねる歩みをしてみようと、思いが翻る。
人生の意義や生きる意味は、見つけるものではなく、たずねていくこと。
南無阿弥陀仏
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