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2021年1月 1日 (金)

2021年1月のことば

みなさま 明けましておめでとうございます

うん、やっぱり “みなさま” だ! “明けましておめでとうございます” だ💖
つらい思いをしている人、悲しい気持ちに押しつぶされそうな人、淋しさのなかにある人、そういう方がいることも分かっています。けれど、そういう方々のなかでは年が明けない・・・なんてことはなく、どのような状況に身を置いていようとも、年は明けました。新しい年を迎えました。
明けたからなんなんだ? 明けたからなにがおめでたいんだ? つらい思いをしている人に「おめでとう」と言えるのか? という思いから「明けましておめでとうございます」という挨拶はしない!という声を聞きます。
でも、私はそれは違うと思う。挨拶は、人と人との間で交わされ続けてきたことば。そこには他者(ひと)を思う温もりや、存在を認める(確認する)気持ちや、今年もよろしくね!という思いが籠っている。
何かおめでたいことがあったとか、おめでたいか否かが問われるべきところではない。
年が明けて、今起きていること(特に悩み悲しみ)がリセットされるわけではない。何も変わらないんだけど、人間は節目がなければ、いつまでもずっと悩み悲しみを背負い続けてしまう。節目として、悩み悲しみ以外に目を向ける気づきとして、「明けましておめでとうございます」と声をかけてきたのだと感じます。そこから外れる人は誰もいません。

あらためて、みなさま 明けましておめでとうございます(‐人‐)

元日といえど、いつものルーティンに変わりはありません。
まだ暗いうちに外に出て、掃除。
寒さに震えながらも、背中に熱を感じました。
振り向くと初日の出🌞
日の光に温もりを感じます。
2021年も、厳しい寒さ(大変な事柄)のなかにも、温もり(私をささえるもの)がありますように。
南無阿弥陀仏

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 🐄 🐄 🐄

2021年1月のことば

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名号(みょうごう)不思議海水(かいしい)
 逆謗(ぎゃくほう)死骸(しがい)もとどまらず
 衆(しゅあく)万川(ばんせん)帰(き)しぬれば
 功徳のうしおに一味なり
     親鸞聖人曇鸞和讃

今月のことば 意訳

「南無阿弥陀仏」の名号のはたらきを海(うしお)にたとえるならば、
他者を誹謗中傷して生きている、まるで屍(しかばね)のような私をも放ってはおかない。
尽きることのない煩悩を抱えて生きる私は、まるで淀み濁った川のようだ。
人の数だけある無数の淀み濁った川々が、阿弥陀の大海へと流れ入っていく。
にもかかわらず、淀み濁った川が大海を汚すのではなく、阿弥陀の功徳の大海に摂(おさ)め取られて一味となる。
私の汚れ濁りはそのままに、阿弥陀と一味となっている。

衆悪の萬川

私の姿を川に譬(たと)えるならば、どのような川が想像されるだろう。

 澄んで魚が活発に泳いでいる川だろうか、

 濁って川の底が見えない川だろうか、

 淀んで悪臭を放つ川だろうか・・・

新しい年を迎えるころ、人々は、厳しい寒さの凛とした空気を見習うかのように、我が身を正そうと誓う。

 他者(ひと)に優しく

 自分に厳しく

 周囲のことに気を配り

 環境に優しく

 心穏やかに・・・

我が身を正そうとする誓いというのは、つまりはそれが出来なかった自分がいるということ。

けれど、出来なかった自分を悔い改めたうえで新たな誓いを立てる者はいるだろうか。

松の内が明けるころ、当然の如くまた元の日常へと戻っていく。

年末年始の新たな誓いは忘却の彼方へ。

私の姿を川に譬えるならば、どのような川だろうか・・・

 

縁起の道理

もっとも、
自分で意識して我が身を正すことができるのであれば、もう少しましな私に、もう少しましな世の中になっているのではないだろうか。

とはいえ、
身を正すことが難しいのは、自分に甘くなってしまうからでも、自分の決意が緩いからでもない。

私がなす行為は、自分の意思で決定し、自分が努めて成し遂げていると思ってはいないだろうか。

果たしてそうだろうか。

人は、いや、この世のすべてのいのちや物事は、縁によって起こり縁によって滅してゆく。

無数の縁の重なり合い響き合いによって、生命は誕生し滅し、物事は生じ転じて収まりゆく。

お釈迦さまは、私たちの生きている世界の成り立ちを「縁起の道理」として説かれた。

たとえば、まなびやも、仕事も、連れ合いも、「自分で選んだ」と語る人がいるけれど、それはあまりに周りが見えておらず淋しいこと。

受験するにも、自分の頭の程度や周囲のレベル、経済などの兼ね合いがある。

仕事にしても、誰もがやりたい仕事に就けるわけではない。

連れ合いに関してはなおさら。先方との縁が整わなければ、共に歩むことなどできない。

いのちを授かり、明日とも知れぬ いのちを こんにちに至るまで生きてきた。

振り返ってみて、私の意思や希望自体、私が起こしたものだろうか。

 この学びを極めたい、

 この先生の元で学びたい、

 この仕事をしたい、

 この人と一緒に仕事がしたい、

 この人と人生の喜怒哀楽を共にしたい・・・

そのように私が思うこと、そのこと自体が、さまざまな縁の響き合いによって、私が思わせていただいたこと。

お釈迦さまの教え、「縁起の道理」は、ひとりではない私を照らし出している。

海のなかには母がある

縁に生きているがゆえに、人間は支え合いもするし、傷つけ合いもする。

人間の汚れ濁りを清めなければ 阿弥陀の慈悲のこころに摂め取ってもらえないならば、誰一人として弥陀に助けられるものはいない。

阿弥陀は、縁に生きる人間の姿(そこには、人間の喜びも悲しみも怒りも淋しさも含まれていて、人間の優しい側面も濁った側面も見えている)と真向かいになり、五劫思惟、はてしない時間をかけて思惟して思惟して、そして人間を、すべての生きとし生けるものを救いたいと誓願を立てられた。

阿弥陀の大海に流れ入ることを許されるのは、清浄なる川ではない。

どんなに淀み濁った川であっても、すべての川の流れを受け入れる。

そのままを受け入れ、摂め取る。

煩悩の身である私「衆悪の万川」を、阿弥陀の大海は拒むことなく受け入れる。

どれだけ汚れた「逆謗の死骸」が混じろうとも、

無数の「衆悪の万川」が流れ込もうとも、

阿弥陀の大海が濁り淀むことはない。

「衆悪の万川」と「功徳のうしお」は、水と油ではない。ともに同じ水である。

 

親鸞聖人は、掲示した和讃に続いて次の和讃を詠まれている。

 尽(じんじっぽう むげこう)
  大悲大願(だいひだいがん)海水(かいしい)
  煩悩衆流(しゅりゅう)帰しぬれば
  智慧(ちえ)のうしおに一味なり

阿弥陀如来は衆生を呼んでいる。
衆生を救わんと願う大悲大願の大海に、浅はかな知恵で、少しでも他者より秀でようと争いながら生きている人間という川々が流れ込んでも、阿弥陀の智慧の大海と一味となる。

海の水は蒸発し、雨雲となり、雨を降らせて自然の恵みとなる。

降った雨は、また大海へと流れ帰る。

大海と一味となったいのちは、次のいのちを生んでいく。

南無阿弥陀仏

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今月のことば YouTube版

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掲示板の人形
2021年 丑年(うしどし)ですね。
毎年1月は干支の人形を飾っています。
ひとつだけ、牛じゃない人形がいました(*^▽^*)

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