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2021年1月14日 (木)

偶然とは必然に違いない

昨日紹介した金子大榮師に、

生は偶然 死は必然」という言葉がある。

Img015

浄土真宗のお寺の掲示板に掲げられていて、出会った人もいるかもしれない。

生・・・いのちをいただき、この世に生まれ出でたのは偶然。

「偶」には“たまたま”のという意味がある。

「然」は、「しからしむ」と読み「そのようにさせる」という意味がある。

「偶然」は「たまたま、そのようにさせる(そのようになった)」というような意味。

「生は偶然」とは、生まれてきたのは たまたま そのようになったということ。

仏教の言葉で言えば「縁」に通じるだろうか。

母と父の縁、受精の縁・・・人間のはからいで成し得ることではない。

たまたま たまたまの積み重ね、偶然によって 私は今ここにいる 。

けれど、限りあるいのちを生きているのだから、いつか死ぬのは「必然」のこと、必ずしからしむること。

「生は偶然 死は必然」

私も、何度か法話で紹介した記憶がある。

その際は、熱心にメモをされる人もいれば、頷く人もいて、あらためて言われるとそうだなぁと、我がこととして受け入れてもらえた空気を感じた。

「なるほどなぁ」と感じる人もいれば、「そんなの当たり前のことじゃない?」と思う人もいることでしょう。

でも、サラッと流れゆく言葉でもあるように思う。

さて、昨日の投稿で紹介した金子大榮師の本『私の人生観』を読んでいたら、この言葉の出どころと思われる表現に出会った!

われらにあっては、死こそ必然であって、生はかえって偶然ではないだろうか。」(136頁)

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言っていることは同じ。

話し言葉を法語として掲示するに当たり、「生は偶然 死は必然」と整えたのかもしれない。

けれど、

われらにあっては、死こそ必然であって、生はかえって偶然ではないだろうか。」の方がこころに残る(ように感じる)。

「生は偶然 死は必然」は、生まれ出でた不思議に思いを馳せることなく生きている私に、生の偶然性(有り得なさ)を説き、死を忌み嫌う生き方に、死の必然性(死もあってこその生である)ことを説く。

そのことも大事だけれど、親が子に、先生が生徒に教え諭すような言い方にも聞こえる。

その言葉が心に響く子も、生徒もいるけれど、お小言程度で受け流す人もいるだろう。

われらにあっては、死こそ必然であって、生はかえって偶然ではないだろうか。」という言い方は、問われている余韻を残す。

生を必然(当たり前のこと)として生きている私に、必然なのは生ではなく死だよとクギを刺し、生とは必然ではなく偶然という目線で考え直してみないか? と。

もっとも、こう書いている私も、また違う日に読めば、違う心持のときに読めば、違う受け止めをするだろうけれど、

ずっと聞いてきた言葉の出どころに、偶然出会った喜びと驚きを書いた。

偶然は、必然なのだと想う。

生まれ出でたことにも、“私”である必然性があるに違いない。

南無阿弥陀仏

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コメント

≪…「生は偶然 死は必然」…≫は、[カオスは、偶然、コスモスは必然]との双対性の≪…縁起…≫で捉える[万人]に普遍な『数の言葉(自然数)』の絵本「もろはのつるぎ」(有田川町ウエブライブラリー)あり。

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