偶然とは必然に違いない
昨日紹介した金子大榮師に、
「生は偶然 死は必然」という言葉がある。
浄土真宗のお寺の掲示板に掲げられていて、出会った人もいるかもしれない。
生・・・いのちをいただき、この世に生まれ出でたのは偶然。
「偶」には“たまたま”のという意味がある。
「然」は、「しからしむ」と読み「そのようにさせる」という意味がある。
「偶然」は「たまたま、そのようにさせる(そのようになった)」というような意味。
「生は偶然」とは、生まれてきたのは たまたま そのようになったということ。
仏教の言葉で言えば「縁」に通じるだろうか。
母と父の縁、受精の縁・・・人間のはからいで成し得ることではない。
たまたま たまたまの積み重ね、偶然によって 私は今ここにいる 。
けれど、限りあるいのちを生きているのだから、いつか死ぬのは「必然」のこと、必ずしからしむること。
「生は偶然 死は必然」
私も、何度か法話で紹介した記憶がある。
その際は、熱心にメモをされる人もいれば、頷く人もいて、あらためて言われるとそうだなぁと、我がこととして受け入れてもらえた空気を感じた。
「なるほどなぁ」と感じる人もいれば、「そんなの当たり前のことじゃない?」と思う人もいることでしょう。
でも、サラッと流れゆく言葉でもあるように思う。
さて、昨日の投稿で紹介した金子大榮師の本『私の人生観』を読んでいたら、この言葉の出どころと思われる表現に出会った!
「われらにあっては、死こそ必然であって、生はかえって偶然ではないだろうか。」(136頁)
言っていることは同じ。
話し言葉を法語として掲示するに当たり、「生は偶然 死は必然」と整えたのかもしれない。
けれど、
「われらにあっては、死こそ必然であって、生はかえって偶然ではないだろうか。」の方がこころに残る(ように感じる)。
「生は偶然 死は必然」は、生まれ出でた不思議に思いを馳せることなく生きている私に、生の偶然性(有り得なさ)を説き、死を忌み嫌う生き方に、死の必然性(死もあってこその生である)ことを説く。
そのことも大事だけれど、親が子に、先生が生徒に教え諭すような言い方にも聞こえる。
その言葉が心に響く子も、生徒もいるけれど、お小言程度で受け流す人もいるだろう。
「われらにあっては、死こそ必然であって、生はかえって偶然ではないだろうか。」という言い方は、問われている余韻を残す。
生を必然(当たり前のこと)として生きている私に、必然なのは生ではなく死だよとクギを刺し、生とは必然ではなく偶然という目線で考え直してみないか? と。
もっとも、こう書いている私も、また違う日に読めば、違う心持のときに読めば、違う受け止めをするだろうけれど、
ずっと聞いてきた言葉の出どころに、偶然出会った喜びと驚きを書いた。
偶然は、必然なのだと想う。
生まれ出でたことにも、“私”である必然性があるに違いない。
南無阿弥陀仏
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≪…「生は偶然 死は必然」…≫は、[カオスは、偶然、コスモスは必然]との双対性の≪…縁起…≫で捉える[万人]に普遍な『数の言葉(自然数)』の絵本「もろはのつるぎ」(有田川町ウエブライブラリー)あり。
投稿: 言葉の量化と数の言葉の量化 | 2021年1月25日 (月) 16:28