無常を観ずる
「今日では、生死問題というが如きは、老人のものであるように思われている。
しかし、実際はとくに童心において現れるものである。
そのことは昔の高僧の出家発心が、殆どすべて少年の時になされていることでも知ることができよう。
発心とは世の無常を観じてなされしことである。
これ即ち生死を問題とするものである。
純真なる童心には無常であるということに堪えられないものがある。
それは生の不安を感ずる心である。
いかにしてその不安を除くべきか、そこに永遠に対する悩ましい思慕がある。
それゆえに、無常を観じて出家せられたということは、決して高僧の伝記を飾るためではない。
宗教心は、8、9歳の頃に芽生えるといわれている。
それは無常に堪えぬ心であり、無意識的に永遠への思慕を始めたのである。
とすれば、その心の生ずる時こそ、正(まさ)に人間の誕生ではないであろうか。
『お母さん、死ぬってどうなるの』、と問うようになった時に、われらは動物の仲間から別れることになったのである。
その永遠への思慕が意識的になり、とくに悩ましきものになるのは15、6歳の頃である。
それが、青年における厭世感といわれるものであろう。」
(金子大栄随想集 第6巻 『私の人生』より 改行は私)
☆
「成人の日」を縁に、“成人”という言葉が頭の中にあったものだから、本を読んでいて 上記の部分が目に留まった。
人間の心に留まるものは、今現に進行している関心事が大きい。
どんなに心を打つ言葉、感動的なシーンを目にしても、自分の中に関心事としてなければ ほとんど引っかからないし、
他の人がまったく気にかけないことがれであっても、私にだけ届く事柄がある。
本を読み、心動かされたところに線を引っ張っても、抜き書きしておいても、後日見返すと、「なんでこの言葉にひっかかったんだっけ?」と思うことの方が多い。
それだけ、人間は・・・良く言えば、思考・思索を深めている、悪くいえば生活に流されているのだろう。
でも、それだけに、同じ本を何度も読んだり、同じ映画を何度も見たり、同じ場所を何度も訪ねたりすることができる。
「無常に堪えぬ」・・・
生老病死する身に、不安や恐怖を覚える。
そのことは、確かに不安や恐怖ではある。
けれど、“常”ということもまた不安であり恐怖ではなかろうか。
老いることなく、死ぬことなく、思考・思索が変化することなく、それこそ 生きている意味が見えなくなってしまう。
「無意識的に永遠なるものへの思慕を始める」・・・
限りあるいのちを生きている現実と真向かいになり、永遠なるものへの思慕を始める。
はじめは、不老長寿や健康で長生きなど、自身の肉体への不安からの解放を願うところから始まるかもしれない。
その思慕(想い)が、やがて自分の肉体を超えた永遠、つまり自分の思いを超えたおおいなるもの(阿弥陀)への思慕(帰依)、「南無阿弥陀仏」へとつながるのではないだろうか。
人は、無常への不安を感じることによって、阿弥陀なるものへの帰依(南無・帰命)がはじまる。
否、無常への不安を感じることによって、阿弥陀なるものへの帰依(南無・帰命)が始まってこそ、“人となる”と言えるのかもしれない。
宗教心は8、9歳の頃に芽生え、15、6歳で永遠なるものへの思慕が意識的になる・・・
「そんな若い時から宗教心が芽生えるわけがない!」と思われるかもしれないが、
そのように思うのではなく、「私も、そんな年の頃に宗教心が芽生えていたかもしれない(今はどうだろうか?)」と振り返ってみてはどうだろうか。
その振り返りもまた終活のひとつだと思う。
金子大榮師の随想は続く。
(いかにして、その生死の問題は解かれるのであろうか)
「それは求道により、聞法によることである。いずれにしても生死問題の解かれることは、心に永遠の意義を知ると共に、身に真実を感ずることである。これ即ち人生に永遠を受容してゆくことである。その永遠を受容する心は、常に童魂を失わぬものでなくてはならないであろう。その真実を感ずる身は、老境に入りて、体験を豊かにする。それゆえに、永遠を知るものは老境に至るも童心を失わないものである。したがってまた、老境に至って童心を失わないものは、永遠を身証するものである。その純真なることにおいて宗教は青年のものであり、その身証たるべきことにおいて宗教は成人のものである。ここに、心身を具有する人生の意味があるのである。」
« 見えている部分への賞賛は誰でもできるけれど、見えていないところへ想いを馳せるということはなかなか難しい | トップページ | 偶然とは必然に違いない »
« 見えている部分への賞賛は誰でもできるけれど、見えていないところへ想いを馳せるということはなかなか難しい | トップページ | 偶然とは必然に違いない »
コメント