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2021年1月 9日 (土)

名と共に生きています

このコロナ禍における政治の現状に危機感があり(常々ありますが)、ここ2日ばかり政治家の名前を挙げて投稿をしました。

初めはフルネームで書いていました。

でも、ひとり一人の名前の、ひとつひとつの漢字を打ちながら、この人たちの名前にも、この漢字にも、親の想いが込められているんだなぁ…と感じ始めました。

看過できない状況ゆえに書いておくべきと思ったことを綴りましたが、名前は、フルネームではなく名字と肩書に書き換えました。

自分の名前とあらためて対面したとき、自分の生き方が問い直されるものだと思います。

この名前と共に生きてきた 私の生き方はどうであろうか。

名前負けしていないか否かなどということではなくて、私に対する親や周囲の人びとの想いが形となっているものが“名前”です。

私の名前には、私には、個人の枠を超えたいのちや想いが伴っています。

国民の方を向くのがそんなに嫌なら、せめて自分の名前と向き合ってほしい。

それで何も感じないなら、それだけの人だったという、残念なお話。

 ☆

さて、想いが込められているから一概に大切だ・尊い と言うつもりはありません。

親から付けられた名前に重さや違和や不快を感じている方がいることも事実です。

親の想いに応えるために生きているわけではありません。

親の想い、名前の意味の応えるために生きるのではなくて、「想いがかけられている身である私」であることを忘れないでいてほしいと思います。

その想いの掛け主を、阿弥陀と言います。

私は、私の名前の他に、南無阿弥陀仏という名と共に生きています。

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