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2021年1月18日 (月)

無言の問いというものは、言葉で表される問いよりも、時には深く大きなものなのですよ

昨日の投稿で「人生の意義や生きる意味は、見つけるものではなく、たずねていくこと。」と書きました。

私は、(たとえ一過性のものであっても)人生の意義や生きる意味を見つけてしまったら、つまり背負うべきものに出会ってしまったら、生きることがつらくなるものだと思っています。

“つらさ”と言っても、「投げ出したくなるような悲しみ」という意味ではなく、「生かしめるはたらき(力・エネルギー)」というような意味で言っています。

つらい現実に遭い、同様の想いを他者(ひと)にさせたくないからと、我が身に起きたことを周知したり、同様の悲しみの中にいる方に寄り添ったりされている人びとがいます。

そういう人びとは、人生の意義や 生きる意味に出遇ってしまったのだと思います。

「人生の意義や 生きる意味」とは、必ずしも「見つけよう!」と呼びかけるものではありません。

けれど、だからといって「人生の意義や生きる意味」を見つけることをやめようと言っているのでもありません。

「人生の意義や生きる意味」とは、「自分を活き活きと生かすために見つめるもの」ではありません。

それほど重たいものを背負いながら生きている事実、そのことに真向かいになることです。

昨日の投稿後、高史明先生の『念仏往生の大地に生きる』(東本願寺 伝道ブックス53)を読んでいて、次の文章に出会いました。

 ☆

◇はじめて開かれてくる阿弥陀の世界
 平野恵子さんという方が子どもたちに書き遺した手紙がここにあります(平野恵子著『子どもたちよ、ありがとう』法蔵館)。この方は、40歳になったときに、子どもが3人もいるのにガンになりました。そして死んでいかなくてはならないということになりました。しかも、平野恵子さんのお嬢さんは、重度の脳性まひで、ものが言えません。起きることもできません。ごはんも自分で食べられません。平野さんは、まさにそののっぴきならないところに立たされたとき、仏さまのお声を聞いたのでした。その寝たきりで、言葉もわからないお嬢さん、そしてお子たちに遺書を書かれるのであります。まずお嬢さんに宛てた手紙です。

 笑っていてね、由紀乃ちゃん
 由紀乃ちゃんのことを考える時、お母さんの心はいつも、静かで満ち足りた嬉しい思いで一杯になります。そして、あなたに恥ずかしくないように一生懸命生きなければ、という強い思いが身体の底から湧いてくるのです。
 お人形さんのように可愛らしい由紀乃ちゃんが、重度の心身障害児であることを告げられてから15年、ずっしりと重い15年間でした。眠れないままに、小さな身体を抱きしめて泣き明かした夜。お兄ちゃんと3人で、死ぬ機会をうかがい続けたつらい日々もありました。

 人間はのっぴきならないところに立たされたとき、助けてくださいという叫び声に圧倒されたとき、その叫び声をあげるか、自分の死を考えるのでした。これが自分中心の私たちのありのままの姿でありましょう。自分の力でどうにもならないお嬢さんを目の前にしたとき、この子と一緒に心中しようと思うようになった。その裏返しが「助けてください」という叫び声です。平野さんは、その叫び声に押されて念仏を称え続けたのでした。すると、どういうことが起きるか。大学時代の恩師、廣瀬杲(ひろせ・たかし)先生の講演会の席で「問いを持たない人生ほど、空しいものはない」という仏さまの教えを教えられたときに、思わずこのお母さんは叫んでしまったといいます。

 「この子の人生は、いったい何なのですか。人間としての喜びや悲しみを何一つ知ることもなく、ただ空しく過ぎてゆく人生など、生きる価値もないではありませんか」

と。すると、先生は答えられたのでした。「お嬢さんの人生が、単に空しいだけの人生だと、どうして言えるのですか」。「娘は、何も考えることができません。何一つ、問いを持つこともないのです」。すると、先生はさらに言われたのでした。「お嬢さんは、問いを持っていますよ。大きな問いです。言葉ではなく、身体全体で、お母さんに問いかけているではありませんか。無言の問いというものは、言葉で表される問いよりも、時には深く大きなものなのですよ」と。
無言の問いと言われた。「念仏」とは、真実の智慧であるとともに、私たちにとってはまさに「無言の問い」そのものでありましょう。言葉の知恵を根源的に超えているのであります。夜空を見上げて心が澄んでくるとき、まさに無量の星が私たちを見つめているのが実感されてくることがありましょう。仏さまが見つめておられるのであります。

 大きな問い、無言の問い、由紀乃の問い・・・・・・。それに気付かされた日からお母さんは変わりました。自分自身の生き方に対して、深く問いを持つこともなく、物心ついた頃より確かに自分の手で選び取ってきた人生の責任を、一切他に転嫁して恨(うら)み、愚痴と怒りの思いばかりで空しく日々を過ごしてきたのが、実はお母さんの方だったと、思い知らされたからです。(後略)

「言葉」のない由紀乃ちゃんが、お母さんの「いのち」の支えになっているのであります。

 ☆

大きな問い、無言の問い、いのちからの問いをいただきながら、“私”は生きています。

「生まれた意義や生きる意味」あるいは、「人と生まれたことの意味」とは、その気付きであると思います。

人として生まれ、生き、そこには他者やあらゆる事柄との結びつきがあります。

上手く対応しながら生きていること、自分の想いを言葉で上手に伝えることが、人として生まれた意味なのでしょか?

他者のお世話になりながらでないと生きられない人々も、言葉で想いを発せられない人々も、「問い」を持ちながら生きています。

そのことを、周りの人びとに気づかしめるために生きています。

いわゆる健常者と言われる人々は、人として生まれたことの含む「問い」に無関心・無感覚・無感動で生きがちです。

意義や意味を問うということは、それに先立って「問い」があるということです。

意義や意味が持つものは“答え”ではなく“問い”です。

南無阿弥陀仏もまた、私に呼び掛けている“問い”です。

声なき声としての呼びかけ、あるいはお念仏という呼びかけ・・・呼びかけられてある“私”

そのことを、手を合わせて(念仏申して)たずねていきましょう

南無阿弥陀仏

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