転ずというは、
みなさま お正月 いかがお過ごしですか
箱根駅伝、往路での青学の失速はビックリでした!
明日の復路、ワクワクします。
さて、2021年1月の掲示板は、昨日投稿したとおり親鸞聖人のご和讃です。
名号不思議の海水は
逆謗の死骸もとどまらず
衆悪の万川 帰しぬれば
功徳のうしおに一味なり
親鸞聖人「曇鸞和讃」
当初、親鸞聖人の別のことばを考えていました。
転ずというは、
つみをけしうしなわずして善になす也、
よろづの水 大海にいれば
すなわちうしほとなるがごとし。
親鸞聖人『唯信鈔文意』より
『唯信鈔』という、法然門下の先輩 聖覚の著作があります。親鸞聖人は『唯信鈔』を大切にされました。その『唯信鈔』に、自分なりの注釈(文意)を著わされたものが『唯信鈔文意』です。
その『唯信鈔文意』にある一文を掲示するつもりで準備をすすめていました。が、書いてみたら ひらがなが多くて読みづらいことがわかり、掲示した和讃に変更しました。
ことばの意味を私なりに書くと、
「南無阿弥陀仏」と念仏申して、この私が転ずるということは、
念仏申すことによって私の罪を消して、失わせて、そして善人になるということではありません。
罪業を抱えて生きている衆生(生きとし生けるもの)が阿弥陀の慈悲の大海に入るということは、
阿弥陀の大海と一味となるということです。
転じるとは、私が善い人間になって、阿弥陀の救いを得るということではなく、
この身このままの私が、阿弥陀の救いの対象であるということに気づくことです。
私の行いを転じさせるのではなく、私の思いが転じるということなのです。
そのはたらきを、「自然(自然)」と言います。
となります。掲示した一文の、前の部分も含めての意訳ですが。
善い人間になろう! こころを入れ替えて頑張ろう! という思いは尊ぶべき思いですが、私の思いによって私が転ずる(変化する)のであればこれほど楽なことはありません。
これから勉強を、仕事を頑張ろう!と思った矢先に、「勉強してるの!?」「この仕事やっておいて」なんて言われるとやる気が失せませんか?
どんなに頑張っても、思う通りにならない経験はありませんか?
善い人間になろうと思っても、誰かの為に動けば、その人以外の人を傷つけるということも起こります(ほとんどが無意識でのことですが)。
出会う縁によって、思いも成果も結果も変わってきます。
だから頑張ろうとしなくていい!ということではありません。
ただ、“私”が生きている大地は、私ひとりが立っているわけではありません。生きとし生けるものと共にある“私”です。その自覚が、縁に生きていることの自覚、つまりはお釈迦さまが説かれた「縁起の道理」を理解するということなのです。
善い人間にならなければ、清い人間にならなければ、今までの自分の罪を心から懴悔しなければ、阿弥陀如来に救いとられないのだとしたら、誰も阿弥陀に救われる者はいません。
“私”は罪を背負っている。それは、人と人とが関係を持ちながらひとつの大地に生きているから当然のこと。
当然のことの気づき(転ず)が、すなわち阿弥陀と一味である私の気づきであります。
この身このままの“私”こそ、阿弥陀の慈悲の大海のなかに、すでにいました!
その事実を、今月(新しい年の初め)に書きたかったのです。
ことばは変更しましたが、気持ちは同じです。
(追記)
掲示しようとした『唯信鈔文意』の文言は、大谷派の『真宗聖典』には出てきません。
大谷派『真宗聖典』の『唯信鈔文意』は、高田派専修寺蔵親鸞聖人真筆本を底本としています。
私が参照したのは、本願寺派の『浄土真宗聖典全書』です。こちらには、高田派専修寺蔵親鸞聖人真筆本を底本としたものと、高田派専修寺蔵鎌倉時代書写本を底本としたものが対照できるように掲載されています。掲示しようとしたことばは、後者に著されています。
本願寺派の『浄土真宗聖典全書』を初めて手にしたときのワクワクは忘れられません☆彡
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