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2020年12月 2日 (水)

お念仏は、讃嘆であり懴悔である (金子大榮)

昨日の投稿で、「感謝と陳謝」について書きました。

「感謝と陳謝」「ありがとう と ごめんなさい」について文章を書いているうちに、金子大榮先生の言葉「お念仏は、讃嘆であり懴悔である」を思い出してもいました。

南無阿弥陀仏の念仏は、讃嘆であり、懴悔である。

親鸞聖人の恩徳によって、南無阿弥陀仏の念仏を、教えをいただき、阿弥陀如来の慈悲のなかにある私であることを知らされました。その喜び。

しかし、阿弥陀の慈悲のなかにある私とは、いかなる私であるのか。

そのこともまた、念仏の教えによって教えられました。

縁がもよおせば、いかなるふるまいもしてしまう私であるということを。

罪悪深重の自覚によって生じる懴悔。

そのような、本来ならば救われるはずのない身である私を、救わんと誓い願った阿弥陀如来。

その阿弥陀の慈悲に包まれてある私。その気づきと、その気づきから生まれる讃嘆。

南無阿弥陀仏には、讃嘆と懴悔のふたつがあるということではなく、讃嘆と懴悔の自覚が行ったり来たりし続ける。

そのようにいただいています。

「謝す」とは、感謝であり陳謝である。

「南無阿弥陀仏」は、讃嘆であり懴悔である。

まったく別の性格を持つ(ように思われる)ものが、ひとつの言葉に凝縮されている。

矛盾することなく、破綻することなく。

感謝と陳謝、讃嘆と懴悔は阿弥陀の慈悲のなかにある。

南無阿弥陀仏

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