名前と共に生きているということは、多くの人びとの想いとともに生きているということ
車を運転中、赤信号で停止。
目の前を、後部座席に幼い子を乗せて お母さんがこいでいる自転車が走っていきました🚲
このような光景を見るたびに、池袋の暴走運転事件を思い起こします。
(その事件現場に行くたびに、手を合わさせていただいています)
「歩く人、自転車優先! 安全運転!」と、自分に言い聞かせています。
そして、想う。
今、目の前を通った親子にも、池袋の事件で亡くなった親子にも、名前があるということを。
亡くなられたお母さんと娘さんには、松永真菜さんと莉子さんという名前があります。
昨日(2020年12月14日)、その池袋暴走運転事件(どうしても“事故”とは書けません)の第3回公判が東京地裁で行われました。
事件を起こした被告は「車の不具合が事故を引き起こした」と主張し、「ブレーキペダルを踏んでいて、アクセルを踏んだ過失は認められない」と弁護団は訴えています。
報道を見聞きし、「そんなことあるわけないだろう!」「本当のことを言えよ!」「見苦しい!」と感じられる方がほとんどではないかと思います。
けれど、過失があったのか否か、そのことは本人にしかわかりません。
本当のことを語っているのか嘘を語っているのか、本人にしかわかりません。
だから、裁判は繰り返し行われるのです(この件だけの話ではなく、すべての裁判が)。
百歩も二百歩も譲って、車の不具合があったとしましょう。
(そういえば、被告の乗っていた車のメーカーが、「車の不具合」を理由にされた、「そんなことはない!」と、名誉棄損で訴える!という報道を目にした記憶があるのですが、その件はその後どうなったのだろう?)
けれど、人をはねて殺してしまったことは事実です。
亡くなられた方には、名前があります。
名前には、命名した人の気持ち、その名を持つ人を大切に育ててきた人の慈しみの気持ち、その名と共にある人の存在を愛して共に生きたいと願った人の気持ちが籠(こも)っています。
裁判をとおして、何度も何度も亡くなられた方(自分の不注意で殺してしまった人)の名前を目にし、聞いているはずです。
車の不具合かもしれない。けれど、数えきれないほどの人びととの出会いや愛情の籠った名前を持つ人のいのちを殺めてしまった。
その事実から、何も感じませんか。
その事実の前でも、自分の経歴や肩書が勝るのですか?
いのちよりも勝る経歴や肩書って、なんですか? 不自由ではありませんか?
被告もまた、名前を持ちます。
その名前にもまた、命名した人の気持ちがあります。
その名前を持つ人にもまた、大切に育ててきた人の慈しみの気持ちがあります。
その名前と共にある あなたの存在を愛し、頼りとし、共に生きたいと願った人の気持ちがあります。
その名前でさえも、経歴や肩書に負けるのですか?
いのちよりも頼りとする経歴や肩書って、なんですか? 身動きがとれなくなっていませんか?
人を殺めたことから向き合うことは避けられても、名前と共に生きてきた自分自身に籠っている想い。それらから目を背けることは、できないのではないでしょうか。
☆
目の前を自転車で通っていった親子
(お幸せに)
登校する子どもたち
(寒いのに元気だね)
赤信号に変わりそうな信号に、あわてて横断歩道を渡る通勤の人びと
(危ないから気を付けてね。あわてて事故に遭ったり怪我をしたりするよりも、ひとつ信号を待って 気持ちを落ち着かせた方がいいですよ)
・・・( )内は、私の心のなかの声。
車の運転中、赤信号で停まる度に気持ちを落ち着かせています。
車を運転するって、それだけ責任があるということです。
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