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2020年12月21日 (月)

一生造悪

「正信偈(しょうしんげ)」(親鸞聖人著)を毎朝本堂で読んでいるのに、日によって感じ方は違う。

心に留まる一文があったり、「ここ、どういう意味だろう?」とあらためて考えてみたり、「あぁ、ここはこの漢字を使ってるんだぁ」という気づきがあったり・・・

何度も読んでいるのに、思いが尽きることがない。

そりゃ、親鸞聖人自身、生涯をとおして朱をいれていたはずです。

で、今朝は「一生造悪値弘誓」の一文がひっかかりました。

「あぁ、一生をかけて悪を造り続ける身なんだなぁ」と我が身を振り返り、感慨にふけりながら「正信偈」を読み進めました。

不思議なもので、ひとつひっかかることがあると、それに派生した気づきがあるものです。

「正信偈」に続き、今日読んだ「和讃」は「道綽和讃」。

濁世の起悪造罪
暴風駛雨(ぼうふうしう)にことならず
諸仏これらをあわれみて
すすめて浄土に帰せしめり
(五濁悪世の世において、悪心を起こし、罪を造ることは、
暴風や激しい雨のように、急に振出とめどないものです。
十方の諸仏は、起悪造罪の衆生をあわれみて、
浄土往生をおすすめになりました)

一形悪(いちぎょうあく)をつくれども
専精(せんしょう)にこころをかけしめて
つねに念仏せしむれば
諸障自然(しょしょうじねん)にのぞこりぬ
(一生をかけて悪を造り続ける痛ましい私であるけれども
この造悪の身である私を助けずにはおけないという阿弥陀の慈悲を、
専ら心にかけて、常に「南無阿弥陀仏」と念仏を称えれば、
私だけではどうしようもない さまざまな罪や障りが、阿弥陀の力によって(願力自然に)除かれてゆきます)

縦令(じゅりょう)一生造悪の
衆生引接(しゅじょう いんじょう)のためにとて
称我名字と願じつつ
若不生者とちかひけり
(たとえ一生をかけて悪を造る身の衆生であろうとも、
衆生(すべての生きとし生けるもの)の手を取って導くために、
我が名「南無阿弥陀仏」を称えよ、必ず助けると誓われました。
もしあなたが救われないのであれば、この私自身も救われることはない(仏とはならない)との誓いと共に)

悪を造りながら生きている我が身が連呼され、しかも、我が身と共にある阿弥陀が説かれている。

この和讃も何度も読んでいるに、「正信偈」の「一生造悪値弘誓」が心に引っかかった故に、より響いてきました。

一生をかけて悪を造り通している私。

その私との出会い(気づき)によって、「弘誓に値(もうあ)う」。

阿弥陀の慈悲のこころに手を取られながら、手をつなぎながらある私です。

あらためて教えをいただき、合わさる手にぬくもりを感じました。

南無阿弥陀仏

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