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2020年12月 1日 (火)

2020年12月のことば

2020年も12月を迎えました(あ、先月と同じ書き出しだ💦)。
12月は師走とも言いますが、“師走”というと慌ただしい雰囲気が出てきますね(坊さんが暮れの読経で走り回るという意味があるからでしょうか)。
日が暮れるのも早くなりました。同じ24時間なのに、一日の経過が早く感じます。
コロナ第3波が襲来していますが、暮れだからといって慌てず騒がず丁寧に過ごしたいものですね。
寒さも本格化してきました。暖かくしてお過ごしください(換気もしなければいけないから難しいですが)。

 ☆ ☆ ☆

2020年12月のことば

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感謝と陳謝
謝には、
 ありがとうと
 ごめんなさいが
 入り混じっている。

報恩謝徳 「謝す」ということ

11月、ご本山 東本願寺で「報恩講」が勤まりました。本年は、ご本山報恩講にお参りすること叶いませんでしたが、ライブ配信のおかげで、画面を通して参拝・聴聞することができました。
画面には映らない多くの方の尽力があり、教えが、遠くにいる私たちにまで届きました。
教えが私にまで届いた恩徳に報謝することを「報恩謝徳」といいます。11月、「報恩謝徳」について考えました。

真宗の法座では、最後に、親鸞聖人が著わされた「恩徳讃」を唱和します。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

ストレートに意訳すると、
「阿弥陀如来からいただいている慈悲のおこころの恩徳は、
身を粉にするほどに報じる(報いる)ものである。
私に至るまでお念仏を届けてくださった先達のご恩徳にも、
骨を砕くほどに謝するものであります。」
となります。

「恩徳讃」の最後に「謝すべし」とあります。「謝す」と言われたとき、どのような態度を思いますか?
信仰の対象や神仏に「謝す」と言った場合、多くの方が「感謝」を思い浮かべるのではないでしょうか。「恩徳をいただき、ありがたいことです」と。
さて、振り返ってみて、私はどのようなときに神仏へ謝しているでしょう。
願い事が叶ったとき、大きな災禍なく過ごすことが出来たとき…などではないでしょうか。つまり、自我・自欲に応えてもらえたことに対する「謝す」です。ということは、自我・自欲どおりにならないときに「謝す」気持ちは起こりません。私の「感謝」は、自我・自欲に縛られています。果たして、それが「謝す」ということでしょうか。

「謝す」について考えていて、「謝」には「感謝」の他に「陳謝」「謝罪」という熟語もあることを思いました。「謝す」には、「ありがとう」だけではなく、「ごめんなさい」もあります。

ありがとう

私が「ありがとう」を言うのは、感謝の想いからだけでしょうか。

「ありがとう」を言う相手は、私がすべきことをしてくれました。私が費やすべき時間を費やしてくれました。私が受けとめるべき悲しみを共に受けてくれました。それらのことに対する「ごめんなさい」の気持ちがあって、「ありがとう」という想いが、言葉が生まれてくるのではないでしょうか。

ごめんなさい

私が「ごめんなさい」を言うのは、お詫びの気持ちからだけでしょうか。

「ごめんなさい」を言う相手は、私がすべきことをしてくれました。私が費やすべき時間を費やしてくれました。私が受けとめるべき悲しみを共に受けてくれました。それらのことに対する「ありがとう」の気持ちがあって、「ごめんなさい」という想いが、言葉が生まれてくるのではないでしょうか。

私の「ありがとう」「ごめんなさい」

と、書いていて思いました。「ありがとう」も「ごめんなさい」も、その言葉を発する根っこには同様の気持ちがあるということを。
「感謝」と「陳謝」。「謝」には、2種類の想いがある…のではなくて、ふたつの想いが入り混じり、ひとつなのです。
果たして、私の「ありがとう」と「ごめんなさい」の内面は、どのようになっているでしょうか。

たとえば、このコロナ禍において、「医療従事者に感謝を伝えよう」というメッセージを見聞きします。医療従事者に「ありがとう」を伝えるとき、そこに「ごめんなさい」はあるでしょうか。
医療に従事される方々の苦労に「ありがとう」の気持ちはあっても、“私”がその苦労をかけているという自覚があるでしょうか(実際にお世話になっている方はあると思いますが)。
“私”とは、罹患者・疾病者のみを指しているのではありません。医療とは、すべてのいのちが対象です。たとえ今はお世話になっていなくても、“私”がいつ病気や怪我をしても診てもらえる。その準備がされている。そういうことを想うと、“私”が伝える感謝には陳謝も伴ってもいいはずです。
果たして、私の「ありがとう」と「ごめんなさい」は、入り混じり、ひとつとなっているでしょうか。

たとえば、地下鉄サリン事件の井上嘉浩元死刑囚のことを思います。
私は、寺報やブログで「死刑制度は公の殺人であるということを忘れてはならない」「誰もが罪業を抱えている」ということを書いてきました。そのような私に、『「生きて罪を償う」 井上嘉浩さんを死刑から守る会』に携わっている先輩が声をかけてくださり、会の機関誌である『悲』に寄稿するご縁をいただきました。
『悲』発刊後、先輩から写メが送られてきました。井上嘉浩さんが、寄稿者ひとり一人の名前を書き、「感謝しています」と綴った手紙でした。
「感謝しています」。井上嘉浩さんからいただいた、最初で最後の言葉です。
彼の「感謝しています」の根っこには、深い懺悔があります。罪を犯したのだから懴悔があって当然だと思われるかもしれません。しかし、誰もが皆罪業を抱える身として生きています。そんな“私”の「ありがとう」の根っこに「ごめんなさい」があるでしょうか。井上嘉浩さんからの「感謝しています」の一言に、「謝す」ということの大変な意味を感じています。

南無阿弥陀仏

☆ ☆ ☆

掲示板の人形
2020年12月の人形は、サンタとパンダと合掌する子どもたちです(^∀^)
手作りのサンタ人形は、お寺の近くにお住いの男性からいただきました。理由(わけ)あって親元から離れて施設で暮らしている子どもたちのために、毎冬サンタ人形を作って贈っているとお聞きしました。
「副住職、お寺さんにサンタはおかしいかもしれないけれど、お寺の新聞に書かれているお嬢さんの絵に癒されているので、サンタ人形をプレゼントしていいですか?」と声をかけていただきました。ありがとうございます。今年で3年目になります。サンタも増えて賑やかになりました。
パンダ人形は、秋田の弟が娘たちに贈ってくれたものです。そういえば、上野動物園のパンダのシャンシャン🐼は、今年いっぱいで中国に返還される約束なのですね。一度だけお目にかかりましたが、お別れは淋しいものです。惜別の想いを込めて、パンダ人形も飾りました。
合掌している子どもたちの人形も一緒に飾り、多様性の意味も込めました。
新型コロナウイルスの収束も願いつつ、新しい年が穏やかな年になることを念じてやみません。

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