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2020年12月19日 (土)

同じ映画を何度も見ているのに、見るたびに「こんなシーンあったっけ?」「ここに こんなものあったっけ?」「あぁ、いかに何も見てないかを感じるね^^」なんて思うことはないでしょうか。でも、私が気づいていないだけで、そこにあるものとは、あるべくして あるんだなぁと思います。

今年の11月16日午前4時頃、東京都渋谷区のバス停で60代の女性が頭を殴られて死亡しました。

報道によっては「ホームレスの女性」などと書かれてはいますが、今年の2月までスーパーで働いていたものの職を失い、それからバス停で寝泊まりしていたらしいです。

働いていたものの、職を失うとほぼ同時に住む場所を奪われてしまう。

そういう状況に身を置く人は、決して彼女だけではありません。

このコロナ禍で、職を失うとともに住む場所を追われた人は大勢います。

日本を「豊かな国」と形容する人は多いけれど、果たしてそうなのでしょうか。

さて、彼女を襲った男性は、彼女の存在が気に入らなかったと言います。

バス停で寝泊まりしだした彼女に、「お金をあげるからどこかに行ってほしい」と声をかけたけれど、彼女が寝泊まりを続けたので、男性は袋に石を入れて彼女に殴りつけました。

「ひきこもりがちだった」と報じられる彼は、彼の部屋の窓から見える景色がすべてでした。

その見慣れた景色に、ある日彼女が加わったのです。

彼にしてみれば、彼女は「見たくないもの」と映ったのです。

そして、犯行に及びました。

身勝手な考え方・行動に思えます。

ですが、果たして彼を責めるだけで終わる話でしょうか。

特定の他者(ひと)に対して、見たくない、邪魔、などという感情が湧くことは、誰にでもあるのではないでしょうか。

そのことを横において この事件を見るのは、あまりに他人事と感じます。

化粧品やサプリメントを扱う会社の社長が、在日コリアンの方に対する差別発言を繰り返しています。

物品を販売する会社において、社長がよくもここまで差別発言をできるなぁと驚きを隠せません。

けれど、その社長の思想においては、一点の曇りもないのでしょうね。

今まで何を刷り込まれてきたんだろう、今まで人に会わずに来たのかな、などということを感じます。

見たくない、邪魔、という感情そのものは、その人が持っているものなので、それをとやかく言っても水掛け論に終わってしまいます。

見たくない、邪魔、などという感情は、その感情と現実の間にハッキリとした乖離があります。

見たくない対象、邪魔な対象は、現実は見たくない対象でもなければ、邪魔な対象でもないのですから。

その人がそう感じるだけで、見えてはいけない人、邪魔な人など存在しません。

感情としては「見たくない」「邪魔」という想いがはたらいても、私たちの生活において見えてはいけない人、邪魔な人などいません。

それに、その人々だけでなく、他者(ひと)を邪魔もの扱いする私も含めてこの世の中は成り立ち、この世の中を生きています。

その現実、その事実は、決して忘れてはならないことです。

見たくない、邪魔、なものを排除していけば、理想的な世界となるのか?

答えは否です。

もし仮に見たくないもの、邪魔なものを消す能力が、この私に備わったとして・・・今現在の大切な身内、頼りとする者、いてほしい者、そう想う人びとも、やがて消し去ってしまうことでしょう。

人間ってそういうものだもの・・・という姿を、すでにのび太君は体現してくれています(「どくさいスイッチ」より)。

それに、この私自身が、「見たくないやつ」「邪魔なやつ」という目で見られているかもしれない、なんてことに想いが及んでいるでしょうか(私が見られるから、他者をそんな目で見ないように!という話ではありません)。

私の手に、他者(ひと)を傷つけるための、石を入れた袋など持ってはいないでしょうか。

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