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2020年12月20日 (日)

「みんな」を見て「みんな」と言っても、そこから外れる者・漏れる者が生じて「みんな」とはならない。「ひとり一人」を見ることを通して、「みんな」と言える。でも、そんな眼は、人間は持ち合わせていない。そんな眼で「ひとり一人」(つまり「みんな」)を見ているのが阿弥陀。

「東京新聞」 2020年12月20日(日)朝刊
 時代を読む 「国民」という名の虚構 内山節(哲学者)

 振り返ってみると、今年は「国民」という言葉が風化した年だったという気がしてくる。新型コロナの感染が拡大した頃から、私たちは「国民の命を守る」とか、「国民の生活を守る」というような言葉をよく耳にした。とすると、ここで語られていた「国民」とは誰のことなのか。
(中略)
 コロナの下で背負った課題はさまざまであり、「国民」という言葉でひとくくりにすることができるものではなかった。制度的には日本国籍をもっている人が国民であろう。しかし日本には、日本国籍をもたないで私たちの社会を一緒につくっている、さまざまな人たちがいる。在留資格をもっている人。留学生。ビジネスマン。難民申請をしている人。技能実習生として日本に働きにきている人。制度上はこれらの人びとは国民ではないということになる。しかしコロナウイルスは、国民かどうかなど関係なく感染の手を伸ばす。こんなふうに考えていくと、「国民の命を守る」という言葉自体がむなしいものに聞こえてくる。
(中略)
 コロナとともに暮らす時代とは、社会をつくっているすべての人たちを守る社会でなければならないだろう。そう考えたとき、国民というひとかたまりでとらえられた人間像は、制度がつくった虚構のようにも思えてくる。
 考えてみれば国民という言葉は、政治の上で用いられる都合のいい言葉でしかなかった。選挙で勝てば、政府は国民の信任を得たとして好き勝手なことをしてきたし、沖縄の基地問題をはじめとして、政府の方針に反対する人たちは、あたかも国民ではないかのごとき扱いを受けてきた。
 本当はこういうことなのだろう。国民というひとつの言葉では、まとめることができない人々。それが国民なのである。しかも社会のメンバーには、日本国籍をもたないさまざまな人々がいる。そのすべての人々を視野におさめず、ひとかたまりにされた国民がいるかのごとく発言されると、私たちは国民という言葉自体の虚妄性に気づくことになる。
 そういうことがあるから、今日では、政治家たちが国民への呼びかけをしても、その言葉が自分に対して向けられているとは感じない人たちが、数多く生み出されているのだろう。コロナが顕在化させたこのような変化を経て、来年はどんな時代がつくられていくのか。私はそんなことを考えながら、大みそかを迎える。

 ☆ ☆ ☆

文章を書いていて「国民」という言葉を書きそうになるとき、いつも悩む。

「国民」とは、誰を指しているのだろう?

「国民」とか「日本国民」と表現したとき、「日本国民」のカテゴリーから外れる人が多くいることを想う。

内山節さんがおっしゃる通り、制度上は線引きができることなのだろうけれど、

日本に住み、働き、家族がいる人もいて、税金を納めているにもかかわらず、賃金が安い、差別を受ける、選挙権がない人びとがたくさんいる。

そういう人びとを、単に制度という線引きで、国民か否かをきめていいのだろうか? 決められることだろうか?

そういうことを想う。

「国民」「日本国民」などと書いたら、おそらくスルッと読めてしまう文章の流れの中で、私の意図としてはみんな含まれているのに、外れる漏れる人が多くいる。

そのことに違和感や 悲しみや 落ち着かない気持ちを感じてきた。

「国民」「日本国民」という言葉は、極力使わないようにしているつもりだ。

過去の文章で使っているとしたら、それはよくよく考えた末に使ったか、“揶揄”して使ったつもりでいる。

「国民」という言葉に対する 根っこのなさを常々感じていたのだけれど
(実際は「国民」という言葉に根がないのではなく、「国民」という言葉を使ってメッセージを発する政治家に根がないのだけれど)、
今日の「東京新聞」で内山節さんが『「国民」という名の虚構』というタイトルで、踏み込んだことを書いてくださっていた。
なるほどなぁと感じた。

「国民の命を守る」というメッセージを聞いて、そこに無理を感じる人もいるだろう。

「“国民”といっても、すべての人々を守るのは無理や限界があるじゃないか」ということだと想う。

確かに、経済的にもマンパワー的にも、人々の心の余裕的にも、すべての人々を守るということに無理や限界はあるだろう。

けれど、政治家が「無理や限界があるから、こういう人は最初から外します」とか「理想は語りません。現実に即して考えます」というところを出発点にしたならば、はじめから外れる者漏れる者を想定していることになる。
やはり、“すべて人々”を前提にして、政策運営に努めてもらわなければいけない。

「国民の命を守る」というメッセージを聞いて、そこに白々しさを感じる人もいるだろう。

たとえば、会食を控えるように伝えておきながら、自分たちは、自分達で規定した人数を超える人数で会食し、しかもそれをフォローするように身内が「一律にダメと申し上げているわけではない」なんて会見されたら、「じゃぁ、私たちも会食しましょう!」と考える方が自然の成り行きだと思う。
(個人的には、会食しなければならないときもあるだろうし、何人で会食しようが どうでもいいと思っていた。そんなところで揚げ足を取って、長々と放送している報道もどうなんだ?と思っていた。けれど、謝るどころか「一律のにダメと申し上げているわけではない」なんて言われたら、我慢している人びとの想いはなんなんだ! 時間の制限を守って経営している人たちの努力を踏みにじるのか!と、怒りを覚えます)

そんな人たちに、「あれはダメ これはダメ 」と規制・制限され、「あぁしろ こうしろ 」と指示・強制され、立てかけたハシゴを思いきり外され、そんな人たちに「国民の命を守ります」と言われても、「なに言ってんの?」「国民って誰のこと?」「思いが伝わらない!」と思うのが正直な感情だと思います。

「国民」と言ったとき、制度的にその内にいる人 外にいる人の区別・差別・壁ができてしまうのだけれど、制度的区別ではなく、「どうせ私のことを言っているわけじゃないし」と、口先だけの「国民」に虚無感を抱いた人びとが、自ら「国民」外に身を置く感覚・感情を身につけてしまっている。

「国民」という名の虚構には、安心して住むことが出来ない。

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