伝統(伝承)と己証
2020年11月28日 親鸞聖人のご命日をお迎えしました。
本堂にて報恩講のお勤めをしました。南無阿弥陀仏
ご本山 東本願寺では、11月21日~28日に報恩講がお勤めされています。
今日28日は「坂東曲(ばんどうぶし)」が勤められました。
このコロナ禍、ご本山の報恩講がお勤めされるのか、されるとしてもどのような対応で勤められるのか。
選択肢としては、一般参拝を受け付けずにお勤めをしたり、まったくお勤めをしないということも考えられるでしょう。
結果、感染症対策をしたうえで、報恩講がお勤めされました。本日の坂東曲も含めて。
現場の方々のご苦労に感謝申し上げます。
さて、そこまでしてお勤めしなければならないの?とお感じになる方もいるかもしれません。
「報恩講」は、親鸞聖人のご命日をご縁とした法要です。法要がお勤めされてきた、その伝統(伝承)です。
けれど、伝統だけでは、そのうち恩徳や目的や意思が薄らいでいきます。
どうして続けてきたんだろう? どうして続けねばならないのだろう? そもそもこれは何なんだろう? と。
「報恩講」は、親鸞聖人の説かれた「南無阿弥陀仏」の念仏の教え。その教えを聞いた人びと、それぞれの人の身に於いて「念仏を大切にします」「阿弥陀をよりどころとしてまいります」という思いが形となったものです。
その思いを己証(こしょう)と言います。「己の身における念仏の証(あかし)」です。
教えに出会い、念仏を称える身となる、阿弥陀をよりどころとした生活をする、親鸞聖人の教えを聞き続けるという姿が己証です。
己証がやがて 法座・法要となり、毎年の報恩講となり、そこで教えが受け継がれ、教えに出会う人が表われる。そういう伝統(伝承)が、報恩講にはあります。
己証だけでは、一人の満足で終わり、伝統とはならなかった。
伝統だけでは、そこに己証がなけば、やがて形骸化する。報恩講がお勤めされることも、既に終わっていたかもしれない。
けれど、現代(いま)、ここに、人々と共に念仏が報恩講がある。
己証と伝統(伝承)が生きてある証拠です。
「伝統」は、ある営みや物事が大切だから「伝統」になったのではありません。
ある営みや物事、教えや教えに出会った人に会うことによって、生きていくうえで宗(むね)とするものを見つけた人がいる。
その人と人とのつながりが、やがて「伝統」となりました。
「伝統」の背景には、ひとり一人の「己証」があります。
己証があって伝統(伝承)となり、伝承あるからこそ己証が芽生えてくる。
ただ、「真宗の行事だから」というだけの意識だったら、「報恩講」に意味はなく、続いてはいない。
「報恩講」が、こんにちまで続いてきたのは、そこに己証があるから。
その伝統と己証に耳を澄ませることが、次の伝統と己証を生む。
南無阿弥陀仏
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