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2020年11月

2020年11月28日 (土)

伝統(伝承)と己証

2020年11月28日 親鸞聖人のご命日をお迎えしました。

本堂にて報恩講のお勤めをしました。南無阿弥陀仏

ご本山 東本願寺では、11月21日~28日に報恩講がお勤めされています。

今日28日は「坂東曲(ばんどうぶし)」が勤められました。

このコロナ禍、ご本山の報恩講がお勤めされるのか、されるとしてもどのような対応で勤められるのか。

選択肢としては、一般参拝を受け付けずにお勤めをしたり、まったくお勤めをしないということも考えられるでしょう。

結果、感染症対策をしたうえで、報恩講がお勤めされました。本日の坂東曲も含めて。

現場の方々のご苦労に感謝申し上げます。

さて、そこまでしてお勤めしなければならないの?とお感じになる方もいるかもしれません。

「報恩講」は、親鸞聖人のご命日をご縁とした法要です。法要がお勤めされてきた、その伝統(伝承)です。

けれど、伝統だけでは、そのうち恩徳や目的や意思が薄らいでいきます。

どうして続けてきたんだろう? どうして続けねばならないのだろう? そもそもこれは何なんだろう? と。

「報恩講」は、親鸞聖人の説かれた「南無阿弥陀仏」の念仏の教え。その教えを聞いた人びと、それぞれの人の身に於いて「念仏を大切にします」「阿弥陀をよりどころとしてまいります」という思いが形となったものです。

その思いを己証(こしょう)と言います。「己の身における念仏の証(あかし)」です。

教えに出会い、念仏を称える身となる、阿弥陀をよりどころとした生活をする、親鸞聖人の教えを聞き続けるという姿が己証です。

己証がやがて 法座・法要となり、毎年の報恩講となり、そこで教えが受け継がれ、教えに出会う人が表われる。そういう伝統(伝承)が、報恩講にはあります。

己証だけでは、一人の満足で終わり、伝統とはならなかった。

伝統だけでは、そこに己証がなけば、やがて形骸化する。報恩講がお勤めされることも、既に終わっていたかもしれない。

けれど、現代(いま)、ここに、人々と共に念仏が報恩講がある。

己証と伝統(伝承)が生きてある証拠です。

「伝統」は、ある営みや物事が大切だから「伝統」になったのではありません。

ある営みや物事、教えや教えに出会った人に会うことによって、生きていくうえで宗(むね)とするものを見つけた人がいる。

その人と人とのつながりが、やがて「伝統」となりました。

「伝統」の背景には、ひとり一人の「己証」があります。

己証があって伝統(伝承)となり、伝承あるからこそ己証が芽生えてくる。

ただ、「真宗の行事だから」というだけの意識だったら、「報恩講」に意味はなく、続いてはいない。

「報恩講」が、こんにちまで続いてきたのは、そこに己証があるから。

その伝統と己証に耳を澄ませることが、次の伝統と己証を生む。

南無阿弥陀仏

2020年11月27日 (金)

人文知

たまたま「じんぶん堂」というサイトを知りました。

「じんぶん堂」は、出版社と朝日新聞社による、人文書の魅力を伝えていくプロジェクトです。
朝日新聞社の本の情報サイト「好書好日」の中で展開するこの「じんぶん堂」サイトでは、人文書を世の中に届けているさまざまな人たちが、その魅力を伝えていきます。

AI(人工知能)が人間の知性を超えて、世界の風景が一変するといわれています。
遠くない未来、私たちは端末やデータとして生きていくのでしょうか。しかし、AIのアルゴリズムを作るのも人間です。
「人文系の時代は終わった」という声も聞こえてきますが、デジタル社会になっていくからこそ、人間が人間らしくあるために、 知ること、考えること、そして自分で判断して表現することの、いわゆる「人文知」がますます必要になってきています。
私たち人文書を出している出版社と朝日新聞社は、このサイトを通じて、みなさんにこう呼びかけたいと思います――
人文書を手にとってみませんか? 世界の景色が少し変わるかもしれません。
発起人:晶文社、筑摩書房、白水社、平凡社、朝日新聞社
(「じんぶん堂」サイト 「じんぶん堂とは」より)

 

「じんぶん堂」のサイトを、まだそんなに読み進めてはいませんが、青山ブックセンター本店(ABC)店長 山下優さんのインタビューが目に留まりました。

「どんなメディアでも出版の記事には、200%『出版不況』って枕詞が入っていて。問題はいろいろあったはずなのに、『出版不況』といっておけばいい、みたいな感じがすごくイヤで。ちょうど(ABCの売上が)前年比で上がり始めていたので、書店も頑張っていることを伝えたかったんです。あまりに伝わっていないと思ったから」

言い訳は、始めてしまうとキリがありません。自分は楽だし、責任を誰かのせい 会社のせい 社会のせいにしておけるから。でも、言い訳している人自身もわかっていることだけど、それでは何も変わりません。いや、良くなることはなくて、悪い方に転がっていきます。

出版業界も大変だという話は耳にします。本屋さんが好きだから、行けるときは本屋さんに行って本を買いますが、夜中にネットを見ていて欲しい本・興味ある本に出会ったら、ついポチッとしてしまいます。こころの片隅がチクッと痛みながら。

『出版不況』という言葉は、私のいる業界(“業界”と言っておきます)ならば「宗教離れ」「寺離れ」「墓じまい」などという言葉が相当するように感じます。お寺に人が来ないことを、「宗教離れ」という社会全体の雰囲気であるかのようにして口にする。そういう態度が、宗教離れ・寺離れにつながっていることを気づいていません。

「これは自分たちの問題でもあって、書店の現状とかを、全然伝え切れていないんじゃないか。飲食店もそうですけど、いきなり潰れることを知って、閉店間際だけ人が並ぶことにすごく違和感がある。(来店者数を)ならしていけば、もしかしたら続けられたお店もあるかもしれない。自分たちで発信していくのは大事だなと」

「自分たちで発信していくのは大事だなと」・・・発信していくしかないのだと思います。そこに結果がついてくるか否かはべつにして。
私のいる業界は、親鸞聖人の教えを発信していくことが中心の務めです。そこを外して、そのことをせずに、「宗教離れ」とか「今は仏教の話を聞いてくれる人はいない」とか言っていれば、それでは確かに潰れていくしかないでしょう。
「潰れる」ことが決まり、その話が周囲に伝わったとき、別れを惜しんでもらえるのかどうか・・・。

山下優さんのインタビューを読んでいて、誰もが大変なところにいるんだよなぁとあらためて感じました。
何もせずに、あるいは愚痴ばかり言って終わってゆくのか、すべきこと できることを見つけて努めていくのか。その分岐点にいるのだと思います。

山下店長の話は、経営の話というわけではなく、“本との出会い”の話を語られています。

実際に本屋さんに行って、買うつもりのなかった本を買った、今まで読んだことのない作者の本を買ったという経験は、多くの方があるのではないでしょうか。
本屋さんのお薦めだった、パラパラとめくっているうちに惹き込まれた、装丁に心奪われたなどなど。
そういう経験は、ネット上ではなかなかできません。自分の好きなアーティスト・著名人、SNSでつながっている友人・知人が、「これ読んでとてもよかったよ!」と書いている本を、ポチッとすることはあるでしょうが。

自分の嗅覚や直感で買うということは、楽しい経験です。
その経験は、本以外の購入の際にも、人とのお付き合いの際も生きてくるはずです。けれど、嗅覚や直感に頼らない生活が当たり前になってきて、さて、人間は何を頼りに自分にとって必要なもの、自分が心から欲するものに気づいていくのでしょうか。

「店頭で、目の前に本があるのにAmazonレビューをスマホで見てるのは、外したくない、損をしたくない気持ちがすごく強いんだろうなって思う。その感覚もわかるんですけど、例えばレビューが星5個でも、それは他人がつけた星。星1つでも自分にとってはめちゃくちゃいい本かもしれない。面白い、面白くないは、自分が決めればいい」

 「本は自分で選んだ方がいろんな扉が開くし、世界が広がるんじゃないかな。みんな自分の『好き』を否定されるのを恐れすぎですよね。自分も学生のときにバイトして、洋服とか音楽とかにつぎ込んで、別に無駄遣いを推奨してるわけじゃないけど、でもそうじゃないと本当に欲しいもの、好きなものには出会えないんじゃないかな」

私が学生の時の話。
大学に入りたて 1回生の私は、同じ部活で同じ学科の4回生の先輩に、
「誰の本を読めばいいですか?」「お薦めの本はありますか?」というようなことを尋ねました。
先輩は、誰の本を薦めるではなく、
「誰の本でもいい、真宗の本でなくてもいい、とにかく本を読め。読んでいるうちに これだ!って本に出会うから」とアドバイスをくれました。

周りが「いい!」と感じる本が、私に合うとは限らない。
周りの評価はいまいちでも、私にとっては響くことがある。
世間の評価、周りの補油版を頼りに本を読むのではなく、いろいろな本に手を伸ばしてみてほしいと思います。

そうだ 本屋さん、行こう。

2020年11月26日 (木)

自分に有利に物事を進展させようとして、うまく行ったことってあったかなぁ?

昨日、ソフトバンクホークスが日本シリーズを制し、日本一を勝ち取りました。

セ・リーグ優勝のジャイアンツを相手に、4勝0敗と、2年続けての圧勝でした。

さて、時折ヤクルトファンネタを書いているので、私はプロ野球が好きなんだな、と思われていることと思います。

たしかに、野球はするのも見るのも好きです。

神宮球場でビールを呑みながらの野球観戦は至福のときです。

けれど、クライマックスシリーズのシステムができてからは、どこか冷めています。

クライマックスシリーズ導入の際に、当時の中日落合監督が、日本シリーズ勝者が本当の日本一ではなくなる旨語り、導入に反対していました。

私も同様です。

大リーグでもポストシーズンのシステムがあるじゃないかという人もいますが、大リーグと日本ではリーグの形式が違います。

リーグのなかに地区があり、それぞれの地区優勝チームどうしが戦って、リーグ優勝を決めているのですから、リーグ優勝であることに違いはありません(ワイルドカードのシステムもあるので、そこはどうなんだろう?と思います)。

日本のプロ野球は、リーグ優勝自体は、一年間戦った結果最高勝率チームが優勝ですから、リーグ優勝チームであることの意味があります。

けれど、クライマックスシリーズで勝ち進むことにより、年間2位・3位のチームが日本シリーズに進み、日本一を勝ち取る可能性もあります。

そのシステムを、どうしても素直に喜べないのです。

過去の、2位 3位 からの日本一チームを否定しているわけでも、ケチをつけているわけでもありません。

ただ、現場の選手やスタッフは、そのシステムを本当に受け容れているのかなぁ?と思うばかりです。

あ、すみません。

クライマックスシリーズというシステムの文句を言おうとしているのではありません。

どんなスポーツも、お金を持っているチーム・リーグを率いているチームの責任者・経営者は、自チームを優勝させるためのルール改正を行います(行おうとします)。

あるいは、特定の個人・チームが優勝し続けたとき、その個人・チームに不利となるルール・システムを、競技団体として改正することもあります。
(私のなかでは、ノルディックスキー複合 荻原健司選手のことが強く印象に残っています。彼のあまりの強さから、日本選手にとって不利なルール改正がなされ、以降、荻原選手から優勝が遠ざかりました。)

ルール改正そのものを一概に否定はできませんが、ある力学がはたれいていることもまた否めません。

プロ野球もまた、クライマックスシリーズの導入や、ドラフト制度・FA制度など、全体の同意というよりも、ある力学が強くはたらいているように感じます。

我が軍が勝たねば意味がないと、強い選手が自チームに集まるようなシステムにルール改正していったチームが、日本シリーズの舞台で力を発揮することなく敗れたことは、皮肉な結末であった気がします。

現場の選手・スタッフは、常に一生懸命プレイしています。

選手・スタッフの非難をするつもりはありません。

ただ、大きな力をもった者が、自分に有利になるように事を進めても思うようにはいかない。

逆に、改正された、新設されたルールのなかでできることを尽くした強いチームが出てくる。

そういうことを感じた日本シリーズでした。

そして、大きな力を持った者が自分に有利にことを運ぼうとすることは、スポーツ(スポーツ経営)の世界の話に限りません。

同業者間のやりとりもそうですし、政治の世界こそ醜悪な姿が著しく表われます。

小選挙区制度なんかもそう感じます。

スポーツの話から政治の話に行くとは、書いていて驚いています!

自分に有利に事を進めようとして、自分がその深みにはまる! 

そうならないように気をつけたいものです。

そのようにしようとしてきたことはなかったか!?

兄弟間、仲間間でも、自分がルールブックになったことはなかったか?

そんなことも振り返ってみてはいかがでしょう?

2020年11月25日 (水)

子どもに注意することって、だいたい自分もやってたんだよね

昨日の投稿で、小学校2年生のお友だちが西蓮寺に遊びに来てくれたお話を書きました。

今朝、昨日お寺に来てくれた子が 私に声をかけてくれました。とても嬉しいです。

子どもたちと接していると、ひとり一人の幸せを願わずにいられません。

 ☆

さて、朝ドラ「エール」も最終週に入りました。

11月23日(月)の放送は、

アキラ(宮沢氷魚)が華(古川琴音)との結婚の許しを得ようと古山家にやってくる。ぶ然とする裕一(窪田正孝)と心配する音(二階堂ふみ)。裕一と音は、アキラのロカビリー歌手という不安定な職業や、これまでの派手な生活から結婚に反対する。しかし、華を思って作ったアキラの歌を通して彼の本気を感じた裕一は、音との結婚も自分たちを信じる気持ちで親が許してくれたことを思い出す。

という内容(NHK「エール」のホームページより)。

娘の結婚を反対しつつも、自分たちも反対を押し切って結婚したこと、自分たちのことを信じてくれた親のことを思い返す古山裕一。

そこで音(妻)に語り掛けます。

 いつの間にか親になって

 いつの間にか昔の自分棚に上げて

 安心とか幸せって言葉 隠れ蓑に

 大切ななにかを見落としていたのかもしれない

 自分の子どもを信じる気持ちを

  (NHK朝ドラ「エール」2020年11月23日放送より)

「あなたのためを思って」「あなたの安心(幸せ)を願っている」って、言っている方は大事なことを言っているつもりで、自分に酔っています。

けれど、言う方は自分の経験を踏まえて言うから、決して嘘を言っているわけではない。

言われる方も、自分の人生(結婚や仕事や勉強のことや)をいい加減に考えて 親や先生や目上の人に訴えているわけではない。

年配の者と若者との間で必ず生まれる壁なのかもしれない。

反対し続けた方が良い未来が訪れるのか、認めてあげた方が良い結果が来るのか・・・

目上の人の言葉を信じた方がいいのか、分からず屋の言葉を振り切ってでも自分の信じる道を行ったらいいのか・・・

そんなこと、どちらが良い方向に進むのかなんてわからない。

わからないから、悩む。

わからないなかで、「(経験を積んでいる)私を信じろ!」と思うのか、「この子(この子たち)を信じる!」と思えるのか。

大切なこと「子どもを信じる」という前提は、見落としてはならない。

「信じる」といっても、信じる信じないの二者択一ではなくて。

「まだ子どもだから」「子どもに何ができる」「子どもには手を指し出してあげなければ」という考え方は、子どもに失礼だ。

話をしていると、子どもは 子どもが経験してきたことを通して、よく見ているし、よく覚えているし、よく考えている。

ちゃんと意見を言うし、我慢するべきところと判断したら我慢しているし(子どもなりにしているのです)、爆発すべき(遊ぶべきときは遊び 学ぶべきときは学ぶ)ところは忖度なくきちんと爆発している。

子どもは、経験値も考えも足りない幼い者ではない。

大谷派僧侶の祖父江文宏さんは、子どもたちのことを「小さい人」と言い、対等に接しておられました。

そのお姿から学び、このブログでも話の内容に合わせて「小さい人」と表現しています。

小さい人と、人として接する。

そのうえで、私が思うこと、感じることをきちんと伝える。

できることなら、目線の高さを合わせて。

そして、小さな人が何を思い、何を感じ、何を受け止めたのか、そのことに耳を傾けられれば。

小さな人(小さな人たち)のことを思うならば、これから先の道を狭めてしまうのではなくて、転ばぬように舗装してしまうのではなくて、自分の経験に合わせた道を勧めるのではなくて、歩みを見続けることが大事。

道が狭くなって先に進めなくなったら、「休んでもいいんじゃない?」「戻ってもいいんじゃない?」って、前進以外の道もあることだけを言えばいい

転ばぬように舗装するのではなく、「私は、こういうことに躓(つまづ)いちゃってねぇ(^▽^)」って、自分の躓きを話す(その後のアドバイスは、聞かれたら答えればいい)

自分の経験則から道を勧めるのではなく、「あぁ、そんな道(考え方・やりたいこと・出会った人びと)もあるんだね」と耳を傾ける

なんてやりとりができる私でいられたら、いいなぁ

 ☆

「エール」に出演している宮沢氷魚さんは、「THE BOOM」のボーカルの宮沢和史さん(54)の息子さん。

ドラマ内で宮沢さんとバンドを組んでいるドラマ―Kaitoさんは、「Mr.children」のボーカルの桜井和寿さん(50)の息子さん。

自分が曲を聞いてきた人たちの息子さんたちが一線で活躍している。

当然と言えば当然の道理(こと)

先行く者は、若い人(小さい人)たちに「この道に行ってほしい」と要望するのではなく、「この道を歩んでいけば大丈夫だ」と、堂々と言える道を切り拓いていくことが努めだと思う。

自分のしてきたことを棚の上に上げてしまうのではなくて、

自分のしてきたことを自分の膝元に置いて、小さい人と語れたら・・・

2020年11月24日 (火)

生まれてきてくれてありがとう

今日、娘たちの通う小学校の、2年生のみんながお寺に遊びに来てくれました。

コロナ禍にあって、バスや電車に乗っての遠足は見送らざるを得ませんでした。

そのようななか、小学校の先生たちは、遠足だけでなく できるだけすべての行事を実施しようと努めてくださっています。

過日、2学年の先生方が訪ねて来られ、「遠足として西蓮寺さんの見学をさせていただけませんか?」と相談を受けました。

お寺としては大歓迎です。「ぜひ ぜひ!」です。

というわけで、2年生のみんながお寺に来てくれる日をお迎えしました。

今までにも小学生たちがお寺に来てくれたことはありますが、そのときは学年全員(100余名)が本堂に入り(まさに“一堂に会し”)、手を合わせてから、お話したり、質問を受け付けたりしました。

けれど、密を避けなければならないご時世、3クラスあるのでローテーションを組みました。

本堂班 お座敷班 お庭班

本堂班は私がお話して、お座敷班は坊守がお話して、お庭班は自由に走り回ってもらっていました (^-^)

本堂班が終わったら、ローテーションで入れ替わり・・・

 ☆

2年生のみんなに、“自己肯定感を感じてほしい”(今日のテーマ)と願い、言葉を書いてお待ちしていました。

本堂前の言葉は「生まれてきてくれてありがとう

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生きていると、楽しいこともあれば悲しいこともあるけれど、生まれてこなければよかったいのち、いじめられていい いのちなんて 無い。

私たちが、「お母さん」「お父さん」「先生」「阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)」とか呼べるのは、私のことを大切にしてくれる人の温かい思いが届いているからだよ。

「生まれてきてくれてありがとう」「一緒にいてくれてありがとう」という想いが、私に届いているからね。

というお話をしました。

また、本堂内には、煉獄さん(煉獄杏寿郎『鬼滅の刃』より)のメッセージ「俺は信じる 君たちを信じる」を掲げました。

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みんな、本堂に入るなり煉獄さんのメッセージが目に入ったようです。

煉獄さんが炭次郎たちのことを信じて大事にしたように、私たちも信じ守られています。

“信じる”は、“大切にする”ってことです。

みんな、大切な ひとりひとりです。

生まれてきてくれてありがとう 今日はお寺に来てくれてありがとう。

というお話をして、それから質問を受け付けました。

いつものことですが、大人の想像を超えた質問が飛んでくるので、面白い(とても温かい)です。

質問コーナーを終えたら本堂内見学の時間。

煉獄さんの言葉に興味を示す子が多いなか、道綽大師の言葉「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え」をジッと見ている子がいました。

心に響いたのかな💖

人それぞれ興味関心を示すところが違って、いつも発見をいただいています。

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この後、西蓮寺を出発して、寺町通りを散策して、広い公園でお弁当だったそうです。

雨が降りそうだったけど、なんとかもったかな。

今日はとても楽しかったです。

ありがとうございました。

また会いましょうね (*^-^*)

 ☆

「自己肯定感」「生まれてきてよかった」というようなお話をすると、大人の方には嫌悪感を持たれることがあります。
「こんな人生、どうして生まれてきてよかったと言えるんだ!?」と。
そう言われることを否定はしません。その方にすれば、心底そう思って発する言葉だから。
ただ、私が仏教にふれているうちに 私のなかに根付いた教えのひとつに「私は、自分で生まれたくて生まれてきた」というものがあります。
その話をすると、「そんなバカなことがあるか!」とお叱りを受けるのですが、私は心底そう思って話しているのですから思いは覆りません。
現在の境遇はどうあれ、「自分で生まれたくて生まれてきた」という想いが根付いてから、“言い訳できないなにかがある” “自分で生まれたいと思っても、外的要因(縁)がなければ生まれることはかなわない” “自分の思い(内的なもの)に対して阿弥陀の願い(外的なもの)がなければ、私は生きていられるはずがない” と、そういう意味での「自己肯定感」があります。
といった難しい話は、自分の人生において仏教にふれて感じられることなので、そこまでのことは言いませんが、
でも、現在の境遇はどうあれ、“わたし”を生かすはたらきは、必ずある! そのことを、今日は伝えたかったのです。
南無阿弥陀仏

2020年11月23日 (月)

言っていることの片鱗でも見せてほしい

新型コロナウイルスの感染者が増えてきました。

目に見えないウイルスが感染拡大すること自体は、自明のことであったのかもしれません。

政府は「Go To トラベル」の見直しを表明しました。

政治に携わる人びとがいかに対処しようと、相手はウイルスです。

簡単に収束に向かわせられる相手ではありません。

ですから、政策の(失敗の)せいで感染が広まったというようなことを言うつもりはありません。

それにしても、政府のコロナ対策は経済(お金)のことばかり見ていて国民(日本に住まう人)のことは見ていないようです。

「Go To 〇〇」でお金を使う(使わせる)ことには懸命ですが、ウイルスの猛威がぶり返したときの対処を何もしていなかったことが目に見えてきました。

最近では、マスクもアルコールスプレーも手洗い石鹸もティッシュペーパーも、店頭に大量に並んでいますし、購入することに困ることがなくなりました。

けれど、再びウイルスが猛威をふるい、マスクなど必要なものが手に入りずらい状況になったときのことを考えているのでしょうか。

品薄になった要因は、日本国内企業が国内で製造しているのではなく、海外で製造したり仕入れていたりしたため、日本に入ってくるのが 日本が仕入れるのが遅れて品薄となりました。

マスクに限らず、医療従事者の着る防護服等も手に入らずに困っていたのは記憶に新しいことです。

また、食品に目を向けると、日本の食料自給率は決して高くはありません。
(充分自給できている食品もあるし、全然足りない食品もあります。食料自給率の数値は、見る資料によってばらつきがあります)

今夏、日本国内においてウイルスが少し落ち着いていたときに、ウイルスが蔓延した際の必需品・食品に対しての対応をするべき(国内生産率を高める方策を打つ。すぐに結果の出ないものもあるけれど)であったのに、そのような動きがなかったことが、現在の政府の対応を見てもあきらかです。

手洗いの励行・三密を避ける、少人数での食事などを呼び掛けていましたが、そのこと自体は政府から呼びかけられずともしてきました。

それに、それらは政策ではありません。

手洗いの励行や三密を避けることを呼びかける背景で、足りていないものの生産性を高める、医療従事者や施設・設備の拡充、経費を削減しすぎて負担を強いてしまった保健所の態勢を整える・・・

それらのことを考えていない、する気もないのに、「国民の皆さんの命と暮らしを守る、こうしたことを全力で取り組んでいきたい」 ということを、「先ずは自助から」と訴えかけていた人が言うから、言葉がむなしく響いてきて、やりきれなくなります。

2020年11月22日 (日)

小さな人の宝物

数日前の話

西蓮寺山門前のベンチに、小さなお子さんのブランケット(って言うのかな? ひざ掛けです)が乗せてありました。

自転車から落としたブランケットを、どなたかが丁寧にベンチの上に置いてくださったのだと思います。

経験上、小さな子のブランケットは、その子にとって大切な宝物。

ブランケットを落とした子は、落としたこと(失くしたこと)に淋しがっているに違いない! と思いました。

お寺の前を自転車で行き来している親子なら、きっとまたお寺の前を通るに違いない。

ベンチの上に乗せてあるだけでは目立たないから、折りたたんで袋に入れて“落とし物”と書いて、目につく高さの所に掲げておきました。

落とした方が見つけて、そのまま持っていけるように。

 🌞 🌞

一日か二日か経過し、ドアフォンが鳴りました。

玄関に出ると、そのブランケットを抱きかかえた子とお母さんが。

「ブランケット、この子のお気に入りだったんです。失くして残念に思っていたんですけど、目につくところに置いておいていただいて・・・。ありがとうございます」とお母さん。

ブランケットを大事に抱きかかえた子も笑顔です。

よかったね よかったね (^-^)

そのままお持ちになってもよかったのに、お礼の声をかけてくださって、とてもとても嬉しかったです。

ブランケットを宝物にしている子の手元に戻って、とてもとても良かったです。

声をかけてくださって、ありがとうございます。

落ちていたブランケットをベンチに乗せてくださった方、ちゃんと持ち主の元に戻りましたよ。ありがとうございます。

 🌞 🌞

そんなことがあって、声をかけてくださったお母さんの気持ちと、ブランケットを両手でギュッと抱きしめている子の姿が 心に刻まれました。

生まれてこの方、

嫌なこと、つらいこと、悲しいこともあるけれど、

「ありがとうございます」の積み重ねで 人間は生きているのではないだろうか、生きていられるのではないだろうか。

そんなことを感じています。

南無阿弥陀仏

また会おうねv(^-^)

2020年11月21日 (土)

ご本山 報恩講 2020

2020年11月21日(土) 本日より真宗本廟において報恩講がお勤めされています。

寺での法務を終え、午後2時からの御正忌報恩講 初逮夜のお勤めを、ライブ配信で参拝しました。

京都に行くこと叶わぬなか、寺にいながらご本山の法要をお参り出来て、有り難いことです(‐人‐)

数年前から法要・法話の配信はされていましたが、今年は配信状況がより充実しているように感じます。

(毎年ご本山にお参りしているので、ここ数年の配信状況をそれほど把握していないのですが)

やはり、このコロナ禍にあって、配信する側も 見る側も 機材や環境が多少は充実したことが大きいですね。

けれど、報恩講をはじめ ご本山の法要・法話を配信することには、当初は(以前は)反対意見もあったと聞きます。

 ・法要・法話は、生で聞くものである。

 ・配信してしまったら、京都まで(ご本山まで)来なくなる人が増えてしまう。

 ・ご本山にお参りしてもらいたい。

私も、ご本山の空気にふれることによって得るものがあると感じているので、一人でも多くの門徒さんに、ご本山にお参りしていただきたいと願っています(報恩講に限らず)。

けれど、その願いは別にして、このような状況・環境下にあって、ご本山の様子をネット配信で世界中の人々が拝聴できるということは、勝縁(有り得ないことが起こっているご縁)です。

「ご本山の報恩講は、このようにしてお勤めされているんだ」ということを感じていただけたらと思います。

配信は、決して本山との距離を開いてしまうものではないと思います。

 ・お参りしたい方はお参りするし、

 ・京都に行ってまでお参りするつもりのない方は お参りするご縁がないし、

 ・本当はお参りしたいのに 事情があってお参りできない人もたくさんいます。

「おいでおいで」ではなくて、「あなたのことを待っています」(「来てほしい」という意味ではなくて、「あなたを待っている人・場所・はたらき、つまり、あなたの居場所がありますよ」という意味です)というメッセージを発することが、法要にしろ、法話にしろ、それらの配信にしろ、親鸞聖人の教えに出会わせていただいた僧侶の勤めなのだと思います。

南無阿弥陀仏

2020年11月20日 (金)

門首継承式

本日〔2020年11月20日(金)〕、真宗本廟(東本願寺)において門首継承式が執り行われました。

2020年7月1日、24年にわたり門首の任にあった大谷暢顯前門が門首を退任され、大谷暢裕門首が、真宗大谷派第26代門首に就任されました。

前門首の挨拶 並びに(現)門首の表白(宣誓)と挨拶がホームページに掲載されています。

前門挨拶

門首表白(宣誓)

門首挨拶

24年前、前門首が就任され、そのお姿を見聞きし、「あぁ、素敵な人が門首になられたなぁ」と感じました。

仕事や研修で本山に行き、お朝事にお参りする際、門首のお姿が見えるとホッとしたものです。

門首の表白(宣誓)の中で、慶讃法要テーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」にふれられ、「⼈間を⼈間の知性からではなく、仏のまなざしの深みから問い返し、⼈と⽣まれたことの意味を回復することが願われています。」と表白されています。

人が、生まれたことの意味をたずねていこうとしたとき、私自身の生まれたことの意味をたずねがちです。

けれど、人は単体として生きているものではなく、周りの人びとのみならず世界中の人びとと、今を生きる人びと だけでなくかつて生きてきた人びと これから生まれくる人びととともに生きています。

そのすべての人びと(衆生)が、阿弥陀如来の眼差しからすれば救いの対象です。

衆生と共にある私。

私もあってこその衆生。

そのことを踏まえながら人生を歩むことが、人と生まれたことの意味をたずねながら生きることとなります。

南無阿弥陀仏と共に。

門首は、幼き日にブラジルへと渡って長き日々を過ごしたのち、縁あって 日本に戻られました。

それゆえに、人と生まれたことの意味を、門首自らがたずねておられることを、挨拶の言葉から伝え感じました。

「幾世代をも貫いて、今日(こんにち)の私にまで相続されてきたみ教えにふれ、今、先達(せんだつ)の歩んだ道を辿り、ここに立たせていただいていることは、誠に筆舌に尽くしがたい不思議な思いがいたします。本当に多くの方々との出会いとお支えのお陰で、今日までの歩みを進めることができました。ここに、ご縁をいただいた多くの方々に厚く御礼申し上げます。」

南無阿弥陀仏

2020年11月19日 (木)

あなたは軽いのよ‼

SNSに他人の悪口を書いたり腹立ちのままに投稿したりして、他者を傷つける行為が社会問題となっています。

投稿する方も、感情のままに書きなぐり、後で冷静になって後悔することもあるそう。

テスト段階の話ですが、他者への憎悪を書き綴っているなとAIが判断した場合に、「このまま投稿しますか?」といった注意喚起を促すことをしてみたそうです。

すると、90%近くの方が、投稿を踏みとどまったという結果が出たそうです。

SNSには、他者を傷つける投稿や、あるいは子どもの学校や習い事での活動状況をまんまあげてしまう人がいます(よそのお家の子も映っていたりする)。

憎悪であったり承認欲求を満たすための投稿であったり、感情のままにした投稿が、後で問題となることも少なくありません。

芸能人の自死が相次ぎ、その芸能人を嫌悪する書き込みをした人たちが、「自分が投稿したことがばれるのではないか」「自分の投稿が自死の引き金になってしまったのではないか」と悩んでいると聞きます。

SNSでのやりとりは、対仮想空間でも、対ネットでも、対コンピューターでもありません。

対人です。人と人とのやりとり、交流です。

面と向かって言わないこと、言えないことは、ネット上でもすべきことではありません。

もっと、言葉を大切にして生きてほしいと願います。

思うに、たとえば文字数の制限がある場合、どうしても丁寧な言い回しではなく簡潔な言い方になります。

簡潔な言い方は、どうしても冷たく聞こえます(読めます)。

それだけでも、受け手が傷つく土壌ができてしまいます。

発する方が簡潔な言い回しに慣れてくると、文字数の制限が緩和されても、表現はきついままです。

丁寧に、優しく、相手のことを思って・・・なんてことは考えません。

テレビ番組で募集され、画面に出てくるツイートを読んでいると、その言葉遣いにしんどくなってくることがあります(内容云々以前に)。

言葉を、もっと大切にして生きたい。

注意喚起されたら思いとどまれるのですから、注意喚起される前に、自分の頭の中で相手のことを言葉の内容を考えてみてほしいです。

 ☆ ☆ ☆

さて、後輩が、恩師(大学の先生)とのやりとりを話して聞かせてくれました。

後輩は、連れ合いから「あなたは言葉が軽い」と言われ、腹立ち、凹みました。

で、恩師に相談というか、「言葉が軽い」と言われた話をしたそうです。

後輩的には「あぁ、そうですか」と、軽く受け流すくらいの反応でよかったそうですが、先生は腕を組んで熟考を始めたそうです。

そして、「う~ん、言葉が軽い・・・でも、私たちは、人間そのものが軽いですからね」と言われたそうです。

もちろん、先生は笑わそうとして言ったのではありません、考えに考えて辿り着いた結論です。

「私たちは」は、“先生と後輩だけ”を指すのではないと思います。

「人間は」ということでしょう。

「人間は、人間そのものが軽いですから・・・言葉だって軽くなりますよね」ということだと思います。

言い得て妙です。ガッテンしてしまいました。

 ☆ ☆ ☆

後輩の話は、AIによる注意喚起の話を仕入れた晩に、偶然聞きました。

だから、昼間は「言葉を、もっと大切にして生きたい」ということを考えながら過ごしていました。

けれど、晩に後輩の話を聞いているうちに、「あぁ、人間そのものが軽いんだから、言葉の扱いも軽いのは当然だなぁ」と思いました。

開き直って言っているのではありません。

「言葉を大切に」、あるいは「いのちを大切に」「仲間を大切に」など、「大切に」と言われるものは多々あります。

けれど、「大切に」とわざわざ言わなければならないのは、それらを大切にできていない現実があるからです。

その現実とは、「大切に」していない現実である以前に、人間の軽さ(=重さ)を認識していないという現実です。

現代(いま)「軽さ」というと、ノリ のことを言っているように思われるかもしれませんが、ノリの軽さではなく、存在の重さを感じていないということです。

今、ここに、私が、他者と共にある。

そのことの重さ(意味)を、仏さまの教えは説いています。

重さを知れば、言葉を使うことの重さも、他者の重さも感じるのではないでしょうか。

決して、仏さまの教えに触れれば重さを知る人間(言葉を、他者を思い遣る人間)になれる!と言っているのではありません。

言葉を、他者を、軽く扱う 私自身の軽さ。

そこに気づいているか!? と言われた気がします。

南無阿弥陀仏

2020年11月18日 (水)

報恩講

昨日(2020年11月17日)、都内寺院の報恩講にお招きいただき、お参りしてきました。

本年は、西蓮寺報恩講も公にはお勤めしませんでしたし、お勤め合いをしているご寺院も内勤めの決断をされたので、報恩講のために外に出ることがありませんでした。

そのようななか、「コロナ禍にあるけれど、報恩講の灯を絶やしてはいけない」との住職・坊守の想いから、報恩講をお勤めすることを決断されたご寺院があり、お招きいただきました。

おかげさまで、本年も報恩講に身を置くことができました。

帰ってきて、正座した足に報恩講疲れ(ネガティブな意味での疲れではなく、とてもポジティブな疲れです)を感じ、「あぁ、報恩講に行ってきたなぁ」と味わいながら、お風呂で足をさすりました。

 ☆

そのご寺院に長年にわたりご出講されていた鍵主良敬先生(2020年7月9日還浄)と中津功先生(2020年8月16日還浄)が還浄され、さみしさのなかでのお勤めでもありました。

また、本年は ご寺院と縁のある曽我量深先生の50回忌でもあります。

曽我先生 鍵主先生 中津先生、師主知識の恩徳に報恩しながらの報恩講となりました。

南無阿弥陀仏

2020年11月17日 (火)

自分との談合

真宗のお坊さんは、NHKの朝ドラと大河ドラマが好きな人が多い気がします(お他宗の僧侶のことは存じ上げないのですが)。

私も嫌いではありませんが、毎日・毎日曜に欠かさず見る!というほどではありません。

妻が朝ドラも大河ドラマも欠かさず見ているので、妻が見ている時に時間が合えば一緒に見て、それでなんとなくストーリーの流れを知っているかなって感じです(私の場合)。

そういえば、朝ドラ 絶対毎日見る系の先輩と、長野に法話に行くために朝早く車で出発した際、朝ドラの時間に合わせてサービスエリアに入りました。

サービスエリアのテレビで朝ドラを見ながら朝食を食べたことを思いだしました。

(で、朝ドラ終わったらレッツゴー🚙)

さて、今放送されている「エール」の、長崎での永田武博士(現実は永井隆博士)のエピソード回「どん底に大地あり」の回は、ツボに入った方が多かったようで、何人かの方がお話に引用されたのを聞きました私もブログで書きました)。

で、その回を見て感動した方が、見ていない方に説明をする場に遭遇しました。

「朝ドラの「エール」、長崎の話、見ました?」と切り出し、見ていない方に説明しているのですが、「え?そうだっけ?」と思いながら耳を傾けていました。

・私の受けとめ方とちょっと違うなぁ。

・その回における話の重要点がそこだったんだ。私は違うところに重きを置いたなぁ。

と、思いました。いえ、私の聞き方が正しいと言っているのではありません。

同じものを見ても、聞いても、ふれても、経験しても、その感想を語れば、人の数だけ表現されます。

・あ、そういう見方もあるんだ!

・あぁ、そこも大事だね!

などという発見もあります。

他者(ひと)の感想を聞くということは、見たもの聞いたものの幅を広げてくれて、楽しいです。

ですが、人によっては、明らかに間違った受けとめをする方もいます。

・なんでそうなるの?

・いや、180度違うと思う。

というようなこともあります。

蓮如上人は、ご法話を聴聞した後、寄り合い談合することを勧められました(「談合」と言っても悪だくみのことではなく、よくよく話し合うことです)。

一 前前住上人、御法談已後仰せられ候う。四五人の御兄弟へ仰せられ候う。「四五人の衆、寄り合い談合せよ。必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く(よくよく)談合すべき」の由、仰せられ候う。
「蓮如上人御一代聞書」(120)

「5人いれば5人がそれぞれ、自分の心に合わせて、自分勝手に聞いてしまうものです。教えを聞いた後、よくよく話し合いなさい」とおっしゃられました。

他の人の受けとめを聞くことによって、今聴聞したことの内容がより膨らみをもたらしますし、もし明らかに受け止めが間違っていたならば、そこを指摘できるし、指摘もしてもらえます。

受けとめ方の間違いを正すことが目的ではなくて、インプット(得た情報を)したものをアウトプット(表現すること)することって大事なことだと思います。

もしかしたら、インプットはきちんとできているのに、アウトプットの段階でうまく表現できないということもあります。

自分の中だけでなら解決・納得できていることも、他の人と共有しようとしたら全然共有できないということは、多々あるのではないでしょうか。

インプットしたものをアウトプットすることに努めることは、縁あってインプットしたものを熟成醸成させることにつながります。

人に話すのが苦手だったら、メモでも、日記でも、ブログでもいいので、表現してみるといいと思います。

5人いれば5人それぞれの受け止めがある。

でも、実は私ひとりのなかにおいても、受け止めがいくつかあったりする。

自分との談合も大切な発見があります。

南無阿弥陀仏

2020年11月16日 (月)

実際に接する機会があるかないかで、人と人との間柄は変わってゆく

今日 七回忌のご法事をお勤めしたお家。

お施主さんは、亡き方の息子さん。

お顔立ちが亡くなられたお父様にそっくりなので、お目にかかる度に、お父様のことが思い起こされます。

もう七回忌・・・

 ☆

ちょうど一年前、西蓮寺にてご門徒の通夜葬儀がありました。

手帳を見ていて、「そういえば、この報恩講の時期に亡くなられたんだったなぁ」と思い返していました。

もう一年経つんだなぁ・・・

1998年 ご本山(東本願寺)において蓮如上人の500回御遠忌が勤まりました。

その際、東京5組(20ヵ寺のグループ)で団体参拝を組んで、門徒さんと共にご本山にお参りしました。

西蓮寺からの参加は 17名。

蓮如上人の御遠忌から22年が経ちました。

諸行無常のいのちを生きています。

一緒にご本山にお参りし、2泊3日の寝食を共にし、吉崎別院をお参りした門徒さんたちも、ひとり、またひとりと還浄されていきます。

今日七回忌をお勤めした方とも、一年前にご葬儀をお勤めした方とも、その団体参拝で一緒にご本山にお参りしました。

団体参拝で一緒に旅行することでもなければ、あんなに話して、あんなに呑んで、一緒に温泉入って、同じ部屋でみんなで寝て(8人部屋だったかな)なんてこと ありませんでした。

だから、団体参拝以降、参加した方々との距離が近づきました。

1998年の蓮如上人の御遠忌 2011年の親鸞聖人の御遠忌

共に東京5組として250人規模の団体参拝でした。

他のお寺の門徒さんとも仲良くなり、法要は、人と人とを結ぶものなのだと感じました。

別離(わかれ)が淋しいことに違いありませんが、あのときの笑顔、あのときの姿、と思い返せるものがあることって、その人との間に築いた財産なのだと思います。

ありがとうございます

南無阿弥陀仏

2020年11月15日 (日)

生物季節観測

昨日のブログで、折々の楽しみ、四季の変化を見つけながら過ごしたいものですねと綴りました。

ところが・・・

気象庁は、鳥や虫の鳴き声の鳴き始めや植物の生育状況を観測して、気象状況の推移の把握をしてきました。

「生物季節観測」といい、70年続いてきたものだそうです。

その「生物季節観測」を、気象庁は動物の観測を年内で取りやめると発表しました。

今までは、植物34種類41項目、動物23種類24項目を観測してきましたが、来年からは「植物6種類9項目のみ」になるそうです。

その理由は、対象となる鳥や虫を見つけること自体が困難になったため。

その原因は、都市化が進んだこと、温暖化が進んだことが挙げられます。

東京においては、ウグイスの初鳴きを2000年3月以降、ヒグラシの初鳴きをを2001年8月以降、観測できてないそうです。

そういわれれば、ウグイスやヒグラシの鳴き声って、あまり聞かなくなりました。

鳴いてはいますが、観測地においては皆無に近いのでしょうね。

夏の終わりにヒグラシの鳴き声を聞くと切なくなってきたものですが、今夏はそんなに聞こえなかったなぁと感じていました。

動植物から季節の移ろいを教えられてきました。

その動植物の生育や数に変化があれば、当然季節を感じるきっかけも減っていきます。

また、二十四節季という暦もありますが、その暦も、暦と現実に乖離があることを、多くの人が感じていることと思います。

立春・立夏・立秋・立冬についてブログでふれてきたこともありますが、書いていることは「立〇とは思えない気候ですね」ということが多い気がします。

季節の移ろいを感じられることの有り難さを思いますし、

その季節の移ろいに急激な変化が起きていることの危機感も忘れてはいけないと思います。

地球の動きにおいて、季節の移ろい・気候の変動は、自然に起こり得るものですが、人為的変化は、地球をはじめ地球上のすべての生き物に負荷を与えています。

四季を感じるがごとく、危機を感じなければいけない。

「生物季節観測」が取りやめられるということは、日本ののどかな習慣が終わるということのみならず、地球規模の問題・課題です。

2020年11月14日 (土)

つれづれなるままに、ぢっと手を見る。

東京は、今朝は寒さ厳しく強い風が吹いていました。

昨日、新潟にお住いの今泉先生と話していて、こう仰っていました。

「東京は、日本で一番寒いところだと思います。いや、気温は新潟の方が低いですけど、東京のカラッとしたビル風に当たると、ほんと“サムイ”と思いますね。街を歩いていると、東京が一番寒く感じます。白山さんの奥さんも秋田の方だから、私の言っていることわかってもらえると思うけど」(^-^)

はい、妻も東京の乾いた風が苦手だと申してます (^▽^)
(妻の出身地を覚えていてくださったことに驚きました)

日本海側、雪の降る地域の風は湿気が含まれているから、風に身を切られるような感じはしませんよね。

東京の風は、確かに“冷たい”です。いろんな意味で。

夏が去り、秋の空気も終わりに近づくと、手がカサカサになり始めます。

お寺での生活は 掃除と共にあります。

年を重ねて手の脂分も減り、水仕事をしていると、手がカサカサになり、ひび あかぎれができます。

ここ数年は、傷を作らないようにする闘い、そして傷との闘いです。

ニベアやワセリンを塗りまくっていますが、それでもひび あかぎれはできてしまいます。

仕方のないことですが💦

夏は、暑さを通り越して熱くなりました。

今年は、秋を感じられる期間が長かったような気がしています。ホッとした時期でした。

寒くなり、冬に向かう今、既に手はひびあかぎれが出来ています。

暖かくならないかなぁなんて思うのですが、その頃には春の花粉症が始まります。

花粉症が落ち着くころには、夏の暑さに向かい始める。

我がままが尽きることはありません。

愚痴ばかり零していても仕方ないので、その時期なりの楽しみを探すようにしています。

夏は、やっぱりビールが美味しい。

今日も一日頑張ったなって言える日に、晩酌で呑むようにしていました。

夜空もきれいです。

今夏は流星群があって(名称を忘れました)、午前3時頃に起きて娘たちと一緒に駐車場に寝っ転がって夜空を眺めました。

結局流星は3つくらいしか見られませんでしたが、楽しい夏の思い出です。

秋は、気候も穏やかだし、植物の成長や鳥の動きを見ていると楽しいです。

西蓮寺山門を入ったところの芝生には、時折ムクドリが大量に現われます。

何してるんだろう?と思っていましたが、芝生から出てくる虫をついばんでるんですね。

人間の目線で見ていても地中の虫は見えませんが、ムクドリたちには餌場のようです。

ムクドリが集まっていることに気づかず、芝生に向かって歩いていくと、ムクドリが一斉に飛び立ってゆきます。

ごめんね。

冬もまた夜空がきれいです。

今日、お墓参りに見えた方も、「ここ最近、月が美しいですね」と仰っていました。

空を見上げる行為は、気持ちを和らげる効果があるのかもしれません。

冬といえば、鍋が美味しい季節です。

数日前に妻が鍋料理を作ってくれましたが、とても美味しかったです。

家族での鍋もいいけれど、友だちとの食事の鍋も楽しいものです。

今年の冬は、食事そのものも控えねばなりませんが、鍋をつつき合うというのは無理な話なのかもしれませんね。

ひとり一人の小鍋でしょうか。

ウイルスを気にせず、食事が出来るときが来てほしいですね。

皆様、折々の楽しみを見つけながら、ご無理ありませんように。

お大事にお過ごしください👋

南無阿弥陀仏

2020年11月13日 (金)

生まれ、生きる

今日(2020年11月13日)は、真宗会館で開催された「真宗門徒秋のつどい」へ。

講師は 今泉温資先生

講題は「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」(慶讃法要のテーマ)

 ☆

善導大師の「両重の因縁」のお話をしてくださいました。

私が生まれてくるためには、父と母の縁があるのは当然のことですが、それと共に私自身の「生まれたい」という願いもあるのです、というお話。

〇「生まれたい」という自らの業識という因

〇父と母の精血という縁

その両方の因縁が重なり、私は生まれてきました。人と生まれるということは、その因縁があってのことなのです。

「子どもを作る」とか、“作る”という表現を現代ではするけれど、「さずかりたるいのち」なんです。

“いのち”を、「さずかりたるいのち」としていただくと、視点も変わってきます。

というお話をお聞かせいただきました(私の記憶のままに書いています)。

※「両重の因縁」については、5月16日の投稿(中村薫先生を偲んで)に詳しく書いていますので、そちらもお読みいただければ嬉しいです。「両重の因縁」のお話は、私にとってとても大切な学びです。

 ☆

先生の控室を訪ねたら、

(先生)「講題が “南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう” だから、テーマ委員だった白山さんがお話されればいいのに。私がお話してしまい、申し訳ありません」

と、謝られてしまいました(^-^)

慶讃法要テーマの発表以降、テーマを受けとめた方の声をお聞かせいただく機会がなかったので、先生の受けとめをお聞きすることが出来て、とてもよかったです。

また、

(先生)「“南無阿弥陀仏”をテーマの頭に掲げてくださったことが、何よりも良かった、嬉しかった」

と言っていただきました。私も嬉しく思います。

(私)「テーマに “南無阿弥陀仏” と掲げたら、真宗の教えにふれた人に対象が限定されるのではないだろうか?という懸念もありましたが、“南無阿弥陀仏”は生きとし生けるものすべてにひらかれた言葉であるのだから、だからこそ“南無阿弥陀仏”を堂々と出そう‼ということになりました」

と、テーマの背景をお伝えしました。

先生、本日は新潟からお越しいただき、ありがとうございました。またお目にかかりましょう(^-^)

2020年11月12日 (木)

「諸行無常」と打とうとしたら「諸業務上」と出てきました。それもまた間違ってはいないような(^∀^)

元銀行マンからコンサルティング会社経営者を経て浄土真宗本願寺派 築地本願寺宗務長になられた安永雄彦さんの話をよく耳にします。

カンブリア宮殿」(テレビ東京 8月6日放送)で放送され、「東洋経済オンライン」(11月6日配信)でも取り上げられています。

安永さんのされているお仕事は、上記「カンブリア宮殿」「東洋経済オンライン」の記事でお読みいただければと思います。

現在のコロナ禍によって、あらゆるお仕事・学びの場・システム・ルール・人間関係などが、変革せざるを得ない状況を迎えています。

(必ずしも、「変わらなければいけない」ということではありませんが。)

けれど、諸行無常の世にあって、コロナがあろうとなかろうと、変わるべきところは変わってゆくものです。

お寺(だけでなく あらゆる宗教)も、変化を求められてきたなかで、コロナによって背中を押された側面もあります。

さて、変化というか、「時代への即応」(もしかしたら、「時代の先を行く」かな)ということについて、箴言(しんげん)に出会いました。

マツコ・デラックスさんが テレビ番組「5時に夢中」で語られていたそうです。

「いまテレビが若者と乖離してしまってる理由のひとつが、やっぱり大学出て、そっからADになってお弁当の手配から始めて、ディレクターの横について編集勉強して、30になってようやくひとり立ちなんていったらさ、もう30歳の作るものなんて中高生からしてみたらジジイの作るものじゃん。いま中学生、高校生って自分で動画とかあげてさ、編集とかまでしちゃってる子がいっぱいいるじゃない。そういう子たちのモノに触れて、同年代の子たちがそういうのを見て楽しんでるのと、30歳の出遅れたジジイが作ってるものって明確に違うじゃん」

受けとめ方はさまざまと思いますが、

内部にいる人間ほど・・・

・自分のやっていることをわかっているかといえば、実はまるでわかってないことがあります。

・周りの人が喜んでいると思っているけれど、実は喜ばれていないということがあります。

・必要と思っているけれど、実は必要とされていないということがあります。

・このままでいいと思っているけれど、実はこのままでいいわけないことが多々あります。

書いていてつらくなってきますが、現実だと思います。

内部にいると、そこで生きていると、周りのことだけでなく自分が一生懸命関わっていること自体が見えなくなってゆくものです。

そういうことを、マツコ・デラックスさんの言葉から感じました。

決して、「若い方がいい」と言っているわけではありません。

そんなこと言ったら、安永さんは今年66歳(かな)です。

若いから元気で行動力があって感性豊かだから なんでもできるというわけではありません。

安永さんは、外部を知っている、(築地本願寺の、あるいはお寺の)内部を知らない、そこが強みとなって するべきことを見出して実行に移されてきたのだと思います。

逆に言うと、変化を嫌う人(組織)は、「外部を知らない 内部だけを知っている」ではなく、「外部を知らない 内部も知らない」のかもしれません。

このコロナ禍で、航空会社のANAが事業構造改革を発表し、そこには「グループ外企業への出向」がありました。

関連会社ではなく、まったく畑違いの職種への出向です。

この事業構造改革を見て、「グループ外企業へ出向した人たちの知見がエネルギーとなり、ANAは必ず再生する」と太鼓判を押す人もいます。

決して、「外部を知ること(知っていること)がいい」と言っているわけではありません。

そのことが、自身に優越感を感じさせたり、周りを見下ろしたりして、結果 すべてを傷つけるということもあります。

その前提で・・・

・今までしてきた仕事とは違う仕事をする。

・違う職種の方と出会い、会話をする(そういえば、パパ会は刺激的で楽しい)。

・違う職種、そこで働く人をリスペクトする(仕事ができる人は、他業種の人にいろいろと質問します。自分の自慢話をすることもなく)。

外部を知る(ことによって内部を知る)ということは、実際外部に出ることは難しくても、視点が変わると見えてくるものが変わってきます。

そこから先、変革へと向かうには、より強いエネルギーが必要なわけですが💦

今日の文章は「変革・改革のためにどうあるべきか」などと大層なことを書こうとしているのではありません(そもそも、こんな外部も内部も知らない人間に書けるわけがない)。

ただ、

・「こうであらねばならない」と思い込んでいることって、決して そんなことありません。「こういうやり方もあるかな」っていう方に舵を切ったら、「あ、これいいじゃん!」ってこと、多々あります。

・コツコツと積み上げてきたことは、自身にとっても組織にとっても強みです。でも、その強みに縛られると、結局身動きがとれなくなります。積み上げてきた内容を誇るのではなく、“コツコツとやってくることができた事実”に自信を持てば、あらたな方向でも またコツコツとやっていけます。

・「自分は正しいことを言っている。みんなもそう思っているはずだ」と思っていることって、実はそれほど重宝されません。誰もそれほどは正しいと思ってはいません。そのことを知っていると、自分の殻を脱ぎやすいですよ。

そんなことを、安永さんのやってきたこと(やっていること)、マツコ・デラックスの言葉から思い、綴りました。

2020年11月11日 (水)

1111

今日は、デスク横の棚の片づけを。

仕舞ってあるものは、使ったらちゃんと元の場所に戻しているので散らからないのですが、新しいアイテムを購入したのと、なぜか各種書類が大量に郵送され、デスクとデスク横がとんでもない状態になっていました(ちょっとイライラ)。

要らないものは思い切って捨てまくり、必要なものは項目ごとにまとめ直して、スッキリしました(まだ片付けの余地がありますが)。

片づける毎にけっこう断捨離をしてはいるのですが、物って、持っているものですね。

さて、片づけをして過ごした今日(というより、片付けで終わってしまった今日)は、11月11日。

友人が、「今日は私の日です」とつぶやいています。

誕生日だったっけ? と思ったけど、いや、違うなぁ・・・。

「今日は独身の日です。だから、私の日」って種明かし。

あぁ‼ (「シングル」を表わす「1」が並ぶ日なので、11月11日は「独身の日」だそうです)

それならと、その秋田出身の友人に「今日はキリタンポの日だよ」と返したら、「そんな日あるの!? なんでもありだね(^▽^)」の返事。

さらに他の友人から「今日はポッキーの日でもあるよ」のメッセージが。

それならと追い打ちで私が「今日はチンアナゴの日だよ!!!!」

なんて、11月11日って、話が盛り上がる日だ(^∀^)

(キリタンポと ポッキーと チンアナゴは、その造形から11月11日がその日であること、想像できますね)

 

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2020年11月10日 (火)

文房具屋さんや本屋さんで 来年の手帳やカレンダーを売っているのを見ると、あぁ、今年のふりかえりと来年のあゆみをする時期だなぁって思います。

デジタルの進んだ世において、自身のスケジュール管理は手帳で行っています。

手帳には、スケジュールのみならず、いろいろな情報や思いついたことを書き込む癖がついているので、デジタルに移行できそうにありません(もっとも、デジタルに移行しても、いろいろな情報を入力することはできるのでしょうが・・・つまり、そのスキルがないということで)。

新しい手帳を買って最初にする作業は、過去のデータを書き込むことです。

今年の始めからページをめくり、移行しておきたい情報を書き込む。

そんなことしていると、「あれ、これって、今年のことだったっけ?」ということや「もうあれから〇年経つのか!」ということや「〇〇さんが亡くなってもう〇年か」(過去帳みたいな使い方してますね)という気づきがあります。

コロナに始まりコロナのまま終わりそうな2020年。

今年の始めは、そんなに慌てた様子もなく生活していました。

妻と娘たちはお正月に帰省して秋田に行ってたんだ!ということも、手帳を見て思い出しました。

3月いっぱいまで外での仕事を当たり前のように入っていましたが、4月以降はほとんど出ていません。

出たとしても車での移動🚙 細心の注意を払っていたことがわかります。

やがてリモート会議なるものが始まり、「話すのが難しいね」なんて言ってたけど、今ではそれなりに対応できています。慣れるものですね。

夏場以降、集まりを持つことも増えてきました。

秋が来て、冬も近づき、コロナに罹患される方が増えてきました。

夏場は部屋の換気もできましたが、冬場は厳しいですね。

集まる場合、換気を見越して 重ね着できる格好をした方がよさそうですね。

手帳を繰りながら、今年を思い返しています。

そういえば、このブログは書きたいことがあるときに書いていたのですが、3月から意識して毎日書いています。

コロナ禍において「ひとりじゃないよ!」というメッセージを届けられればと思い、内容はさまざまですが言葉を発しています。

けれど、ブログを書き続けていて感じるのは、「他者(あなた)に届きますように」という切なる願いから綴り始めた文章が、実は自分自身の気持ちを落ち着かせるためになっているんだなぁということです。

想いを表現することは(たとえ誰も読まなくても)、気持ちの整理が出来ます。焦らなくていいことがわかります。こころに余裕が生まれます。

ブログだけではなく手帳にも自分なりのアウトプットがしてあり、だから手書き作業をやめられません。

来年2021年の手帳に、必要なことを書き込むと、もう2021年が終わったような気になります(^∀^)

まだ2020年も暮れていないのに💦

手帳でも日記でも、決まったノートに思ったことを綴るだけでも、手書き作業で想いを表出することって、けっこう大事なことだと思います。

行き詰ってしまったと感じている方、「今日やったこと」でも「今 思っていること」でも、ちょっとしたことでいいので、書いてみる時間がかけがえのない時間になることと思います。ぜひ!

2020年11月 9日 (月)

当たり前が、いかに有り難いかということ

今日はいろいろ いろいろと買い物があり、コロナ騒動で在宅が多くなって以降では一番歩き回った(買い物して回った)気がします。

街を歩いていて気付くのは、お店が閉店していたり、変わっていたりすることです。

小学生の頃に利用していた本屋さんは閉店してしまったようです。

娘が好きだった中華料理屋さんは閉店してしまい、新しいお店の内装工事をしていました。

これも、コロナの影響なのでしょうね。

お店に入って気づくのは、マスクや 消毒スプレーや 手を洗う石鹸が、大量に用意されているということです。

マスクが無くて、みんな困っていましたよね。

店員さんに突っかかったり、たまに店頭に出たマスクを奪い合ったり、ネットに出てもたちまち売り切れたり・・・。

そんなときのことを思い返すと、商品がお店に並んでいることの有り難さを感じます。

でも、その有り難さを忘れないようにしないといけませんよね。

また、欲するものがないときに、落ち度のない人を罵(ののし)ったり、奪い合いあったりということを、私たちはしてきました。

さて、そういう生き方でいいのでしょうか。

物のない現実に身を置くと、平生言っていることが出来なくなるのが人間ではありますが、

他者をののしり、物を奪い合いした事実は、決して忘れてはいけないことです。

気温が下がってきて、予測されていた通りコロナ感染者数がじわりと増えてきました。

で、また同じことを繰り返すのでしょうか?

いや、そうならない(そうしない)ように、過去の事実を肝に銘じなければいけません。

今日の、レジでの店員さんとのやりとり、探しているものがなくて店員さんに尋ねたときのやりとり、警備員さんとお互いに道を譲り合ってお互いに道をふさいでしまったやりとり(アンガールズのネタのような)、そんな人と人との接点が、いかに大切で必要で暖かいことか。

買い物をしながら、そんなことを感じていました。

2020年11月 8日 (日)

謹んで申し上げます(‐人‐)

新聞の折り込み広告に、某寺院の墓地分譲中のチラシが入っていました。

チラシの文言を読んでいると、「ねんごろにご供養いたします」「懇切丁寧に対応いたします」などと書かれていました。

“ねんごろに” “懇切丁寧に”、とても丁寧な案内だなぁと、感心しながら目を通しました(決して批判するために書いているのではありません)。

このチラシをご覧になった方は、安心して見学に行かれるだろうなぁと思いました。

丁寧さは大切です。

さて、このチラシを見ながら、こんなことを思いました。

最近(といっても、だいぶ前から)、「ホントにありがとうございます」「ホントにごめんなさい」という文章を見聞きするようになりました。

「ホントに」は、強調であり、「心の底から」ということを表しているのだと思います。

その気持ちは伝わってきます。

けれど、思います。

「ありがとうございます」にも「ごめんなさい」にも、本来その気持ちにウソもホントもないでしょうし、本気度の濃度もないと思います。

「ありがとう」って、「ありがとう」という気持ちが湧いてきて、「ありがとう」と言いたくなるのでしょう。

「ごめんなさい」って、「ごめんなさい」という気持ちが湧いてきて、それでもなかなか言えない言葉だけど、「言わなきゃ‼」っていう気持ちが背中を押して、勇気をもって出てくる言葉でしょう(ポーズだけの人もいるでしょうが)。

「ホントに」って付けなくてもいいと思う。

「ホントに」って付けない方が真実味があるように思う。

のですが、いかがでしょう?

「ホントにありがとう(ごめんなさい)」という表現が目につくようになったのは いつからだろう? と考えたのですが、メールでやりとりをするようになってからの気がします。

電話で想いを伝えるときは、肉声と共に言葉がありますから、「ホントに」なんて言わずとも、本気で言っているのかふざけて言っているのか伝わります。

「ホントに」なんていう必要がありません。

けれど、電話ではなくメールでやりとりをすることが日常となり、「ありがとう」「ごめんなさい」が文字として表現されるようになりました。

すると、発する方はそれだけでは足りなく思い、「本当にそう思ってるんだよ!」ということを伝えたくて、「ホントに」と付けたり、それに見合う顔文字・絵文字を付け足したりします。

また、自分が受け手の場合は、「ありがとう」「ごめんなさい」だけでは物足りなく感じているのではないでしょうか。

「ありがとう」はともかく、「ごめんなさい」は電話で伝えたり、手紙で伝えるべきだと思うのですが・・・というのは もはや古い感覚なのかもしれませんね(鬱陶しく感じられているなぁって感じることがあります)。

メールの普及ゆえか否か、ホント((^∀^))のところは分かりませんが、丁寧の上重ねは、自分が発する立場の時の「伝えたい気持ち」と自分が受け手の時の「物足りない気持ち」から出てきているのではないでしょうか。

そんなことを、一枚のチラシを眺めながら思いました。

2020年11月 7日 (土)

できることは減りました ありがとうが増えました

今日、お墓参りにみえた門徒さんが、「最近、からだが動かなくて。若いときは元気にいろいろ動けたのにね。からだも、あたまも、年とっていくは」と話してくださいました。

そうですね。

私が言ったら笑われるかもしれませんが、私も、老眼が進んできて、「あぁ、これが老眼かぁ」と感じています。

字も、絵も、書く(描く)ことに一瞬の躊躇があります(つまり、まだ慣れていないということで)。

字を、絵を、学校への提出書類を書くときにメガネを外して書いていると、妻が笑います(あなたも そのうち…)、娘がカメラ持ってきます(撮らなくていいから…)。

家族に笑いを提供できてなによりです。

さて、門徒さんと話していて、からだが動かなくなると(からだを動かす機会が減ると)、話をすることも少なくなるそうです。

確かに、人と話をすることって、脳の活性化になっているのだと思います。

人と話す機会が減るというのは、淋しいという気持ち(心)の話だけではなく、からだを動かす機会が減っているというからだ(身)の問題でもあるのですね。

私は、ひとりが好きなので、ひとり呑みをしたり、映画館でひとり映画鑑賞したり、飛行場の展望デッキにひとり出かけたりするのですが、

それは、家族が、友人が、仲間が日常生活のなかにいるから、苦にならずに楽しめるのかもしれませんね。

日常生活の基本がひとりになったら(ひとりでいることが多くなったら)、「ひとりが好きです」なんて言わないかもしれませんね。

年を重ね、たとえ私自身の出来ることは減っていっても、周りに話す人がいれば(頼りとなる人がいれば)、有り難い気持ちは増えていくのかもしれません。

できることは減りました ありがとうが増えました

南無阿弥陀仏

2020年11月 6日 (金)

今日の教訓

妻が仕事で帰りが夕刻になるので、夕飯は、娘たちとカレーを作りました。

野菜は娘たちに好きに切らせました。

すっごい細かい‼

(長女)「あ、カレー作るんだった! ハンバーグの作り方やってた‼」(*^▽^*)

でも、火が通りやすくていいじゃないか👍

で、自分たちで作るのだから、ママが作るのとは違うカレーを作ろうと話しました。

とはいっても、お肉とジャガイモ・玉ねぎ・人参というオーソドックスな内容ですが。

もうすぐ出来上がるってときに、「コーンを入れてみよう♪」という話になりました。

コーンの缶詰を探して、パカッと開けたら・・・ペースト状のトウモロコシが!

缶の中に粒粒のコーンが入っていると、強く思い込みながら缶を開けた私と次女はビックリ😲

(そのとき、長女はカレーをかき混ぜていました)

(次女)「パパ、これなに?」😲

(私)「とうもろこしのペーストだね💦」

缶に とうもろこしの絵が描いてあったので、完全思い込みました (^▽^)

他者(ひと)が思い込みによって失敗したら、「余裕がないなあ」などと思いますが、

自分がやらかすと、思い込みって、なんも見えなくなって(考えなくなって)怖いなぁと思いました。

かつて、車を運転していて、二股に分かれた道を、「こっちだ」って、何の疑いもなく行ったら、完全逆方向で慌てたことを思い出しました。

さて、缶を開けてしまったいじょう、使わねばなりません。

(私)「これで、コーンスープ作ろうか」

(次女)「ほんと!?」(*‘∀‘)

初めてペースト状のとうもろこしを見て、それがコーンスープになるなんて思いもしなかった次女は喜んでくれました。

ペースト状のとうもろこしをお鍋に開けて、牛乳ドボドボ入れて、ブイヨン入れて、塩コショウで味整えて・・・

なんてしていたら、妻が帰ってきました。

ちょうど ご飯も炊けて、カレーも出来て、スープも出来て、長女がトマト切っていて・・・

「お帰り! お疲れ様! ちょうどご飯できたよ」(^-^)

みんなで、カレーライスとコーンスープをいただきました。

コーンスープが苦手だった次女が、スープを飲み干してくれました。

実際に作るところを手伝って、ペーストがスープになるのを見ていて、飲んでみたくなったそうです(飲んだら美味しかったようです)。

自分でやってみるって、大事なことですね。

<今日の教訓>
○人任せばかりでなく、自分で動いてみよう👍
○思い込みは、こわいね💦

2020年11月 5日 (木)

西蓮寺報恩講2020厳修

2020年11月5日(木)☀

西蓮寺報恩講を謹んでお勤めさせていただきました。

コロナも落ち着いている雰囲気ではありますが、門徒さんに移動を強いるわけにはいかないと思い、本年は門徒さんには「報恩講の休会」をお伝えし、住職はじめ寺の者だけで報恩講のお勤めをさせていただきました。

参拝者がいらっしゃらないとはいえ、報恩講は例年の通りお勤めしなければいけません。

報恩講の荘厳(飾りつけ)をし、幕を張り、報恩講の看板を掲げました。

動くと汗ばむような陽気、あぁ、今日、門徒さんも集まる報恩講だったら、素敵な一日だなぁと思いました。

(当然、晴れには晴れの、雨には雨のよさがあります)

娘たちには学校を早退してもらい、一緒に報恩講をお勤めしました。

私も、小4で得度をしてからは、報恩講の日には早退をしていました。

報恩講の雰囲気を、からだで感じてきたことを思い返しています。

その場に身を置くという事実は、話で聞く何倍もの緊張感・臨場感・身を置くことの意義を感じます。

得度をしている長女には、報恩講のお勤めにおいて、念仏和讃2重の1と2の発声をしてもらいました。

この10日ほど練習しましたが、今日(本番)、一番素晴らしい声が出てきました。

門徒さんがいないとはいえ、報恩講をお勤めしている緊張感・臨場感・報恩講の大切さを感じているようでした。

お疲れさまでした。よくがんばったね(^-^) 

隣で声を聞いていた私(パパ)は、心底嬉しかったです。

ありがとう

娘たちの協力もあって、報恩講をお勤めすることが叶いました。

来年は、門徒さんと一緒に報恩講をお迎えすることができたらいいなと、切に願うばかりです(‐人‐)

南無阿弥陀仏

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2020年11月 4日 (水)

柔軟性

一昨日の投稿で、マスクに関する話を書きました。

ほとんどの人が外ではマスクをしていることが当たり前になりました。

先日、生まれて数か月の赤ちゃんにお会いすることがありました。

門徒さんが、お墓参りの折に連れてきてくださったのです。

素敵な笑顔をいただきました。ありがとうございます。

これからの いのち のために、先を生きる者として頑張って生きねばと想いを新たにしました。

さて、寺の人間みんなマスクしてお迎えしたわけですが、赤ちゃんは泣かずに抱っこされています。

以前は、マスクをした人を見ると、赤ちゃんは 普段見ているものと違うものが目の前にあって泣き出すということがありました(ありませんでした?)。

だから、泣かずに抱っこされているので、「マスクしていても泣かないですね」とママとパパに話しかけたら、

「今は、みんなマスクしているじゃないですか。マスクしている顔に慣れているので、泣かないんだと思います」とのお返事。

なるほどなぁと思いました。

すでにしてマスク顔に慣れていらっしゃるのですね! 小さい方は。

マスク顔に免疫がついているのはいいですが、考えてもみると、マスク顔が当たり前の世の中で成長していくと、マスクを取った顔に対してどんな印象を持つのだろう?と思いました。

もっとも、ご家庭ではみんなマスクを外しているわけですから、違和感や嫌悪感はないでしょうが。

少し話は変わりますが、コロナ禍においてzoomなどで会議・打ち合わせ・呑み会などをするようになり、時折、面と向かって話をできるようになったとき、「やっぱり対面はいいね。対面して話さないと、うまく話ができなくて」という声を聞きます。私もそう感じます。

けれど、それは対面が当たり前の環境で生きてきた私たちだから出てくる感想です。

これから、リモートが当たり前の世の中になったとしたら、画面を通しての会話が当たり前になるわけです。

そうしたら、たまに会って話す場が「やっぱ対面は緊張するね。対面していると、何話していいかわからなくて、うまく話ができないや」なんて感覚になるのかもしれません。

マスクをしている人が珍しい時代(とき)は、小さな人が、マスク顔を怖がっていた。

けれど、誰もがマスクをしている時代、小さな人にとって 人の顔はマスクをしているのが当然の感覚になるのかもしれない。

場に集まって会話をしていた時代は、リモートという手段はあっても、それを自分まで活用するような時代が来るなんて思いもしなかった。集まれるのであれば、集まって話すことが当たり前だった。リモートでのやりとりに疲労を感じていた。

けれど、新型のウイルスを気にしなければならない時代・リモートが主流の時代、新型コロナウイルスが収束した後も、リモートでのやりとりが当然のことになるのかもしれない。リモートよりも、実際対面の方に疲労を感じるようになるのかもしれない。

当たり前にしていることは、時代や環境、人々の考え方によっていとも簡単に変わりゆく。

当たり前のことを不動のこととして生きていると、その当たり前が崩れたときに対応することがとても大変なことだと、現代(いま)、殊に感じます。

「当たり前」は、確固たるものではなく移ろうもの。柔軟に対応していくもの。

赤ちゃんを抱っこしながら、そんなことを想わせていただきました。生まれて間もない いのち から(‐人‐)

赤ちゃんは、柔軟ですね (^-^)v

2020年11月 3日 (火)

報恩講仕度

2020年11月3日(火)文化の日

今日、学校はお休み。報恩講を前にした 仏具磨きを、娘たちにも手伝ってもらいました。

普段の「おみがきの会」は、平日に行っていますが、今年は門徒さんに呼びかけず、学校お休みの日に合わせて家族のみで行いました。

娘は、生まれたばかりの頃、座布団に寝かせられたまま おみがきの会に身を置いていたことはありますが、実際に自分でおみがきをするのは、そういえば初めて。

ただ磨くだけでも、けっこう重労働。次女は疲れていました。

「おみがきの会」とは言っても、仏具磨きだけでは終わらず、椅子・窓・柱・障子などの掃除もします。それから内陣の荘厳(お飾り)も報恩講仕様にしました。

家族6人で2時間近くかけてお磨き&本堂の掃除&荘厳をしました。

きれいに整いました(^-^)

いつもは門徒さんに呼び掛けて手伝ってもらっていますが、今年は門徒さんの助力はなし。

いつも助けられているんだなぁということを、あらためて感じました。

南無阿弥陀仏

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磨きおわった仏具

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住職と一緒に 水引 を張っています

Dsc_5421報恩講に向けて

 

2020年11月 2日 (月)

マスクの奥にある顔 人それぞれ

妻が美容院で聞いてきたお話

カットの際 マスクを外しますよね。

私は、耳にマスクのヒモがかかっていると邪魔だから・・・くらいにしか考えていませんでした。

でも、美容師さん曰く、「マスクをしていると、顔の形や大きさ、首の太さがわからないんですよ。そうすると、どんな髪型にしていいのか、どれくらいカットしていいのかわからないんです」とのこと。

そう言われるとそうですね‼

「これくらいの髪形(こんな感じのヘアースタイル)にしてください」と頼めば、そんな感じに仕上げてくださるものだとばかり思っていました。

でも、マスクで隠れている部分の輪郭、顔の大きさ、それに首の太さ・・・そういうところとバランスをとりながら、カットしてくださっているんですね。

たとえ同じ髪形を注文をしたとしても、ひとり一人に合わせて整えてくださっている!

なんだか、素晴らしいな、プロだなと思いました(‐人‐)

もっとも、そんな気遣い不要の私の髪ですが (^∀^) 

2020年11月 1日 (日)

2020年11月のことば

2020年も11月を迎えました。
「秋の日は釣瓶落とし」と言いますが、ホント日が暮れるのがあっという間になりました。
夕方5時前、境内の掃除&見回りのため外に出るのですが、外に出たときは「まだ明るいなぁ」と思うのですが、それから数分のうちに辺りが暗くなっていきます。作業が終わらないうちに暗くなってしまいます😲
朝晩は冷えますね。お風邪など召しませんように💛

 ☆ ☆ ☆

2020年11月のことば

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人に会い
人を知りなさい
それは
自分を知る旅だよ
   『ミステリと言う勿(なか)れ』

報恩講(ほうおんこう)

報恩講の季節です。報恩講は、宗祖親鸞聖人のご法要ではありますが、亡き人 親鸞聖人を偲ぶための場ではありません。聖人の教えにふれる場、人と人とが出会う場、教えを通して 自分に出会う場が報恩講です。

例年、西蓮寺では11月5日に報恩講をお勤めしていますが、新型コロナウイルスを鑑み、本年は休止にしました。「報恩講」やそれに先立つ「仏具お磨きの会」など、門徒さんが集う場を休止せざるをえず、あらためて報恩講が勤め続けられてきたことの意味を感じています。

縁起(えんぎ)の道理(どうり)

お釈迦さまは、「縁起の道理」を説かれました。「この世のあらゆる物事は、縁によって生じ、縁によって滅す」と。

人も私も誰もが、縁によって生じ、縁によって人や事柄に出会い、縁によって阿弥陀の浄土へと還って往きます。

縁によってつながる私たちです。お互いに影響し合いながら生きています。人と自分とは、決して分断されているわけではありません。

「人に会い 人を知る」とは、個々の人柄や思想、生まれ育ってきた背景を知るということではなく、「人に会いながら生きている自分」であることを知ることだと思います。

「人に会いながら生きている自分」は、今までに無数の人に会い、育てられてきました。実際に会ったことがある人だけではありません。会わずに一生を終えるであろう人びとと共に生きています。私が口にする食べものを、私が身に着けている衣類を、作っている人がいます。自分を知るということは、多くの人との関係が結ばれながら生きている、そのことを知ることです。

「縁起の道理」を生きている私です。人を知ることは自分を知ることであり、自分を知ることは人を知ることです。

 愚禿釋親鸞(ぐとく しゃく しんらん)

「自分を知る旅」という言葉から、親鸞聖人を想いました。

聖人は自らを「愚禿親鸞」あるいは「愚禿釋親鸞」と名告(なの)りました。
「愚」は「愚か」。
「禿」は「道を求める心もないのに、生きるため食べるために出家した形だけの僧侶」を意味します。
そのような「愚禿」の名告りには、どのような意味(想い)があるのでしょう。

聖人は、念仏の弾圧を受け、遠流に処されます(「承元の法難」)。僧籍をはく奪され、京の都から越後へと流されました。

流罪の地 越後へ渡る際、聖人を乗せた船の船頭に会います。板一枚下は地獄、つまり、日本海の荒波に呑み込まれればたちまちに命を失う仕事を生業(なりわい)としています。
越後の地は、京の都とは比べ物にならないほど寒く、土地は荒れ果て、過酷な自然の猛威にさらされた地でした。そのような地で、懸命に生きる人びととも出会いました。

船頭や越後の人びととの出会いを縁として「この人たちがいなければ、私はいない」という気づきがありました。

聖人は、人間は それぞれの思いはからいで生きるものではなく、縁によって生きるものであることを、遠流に処されることによって実際体験しました。

自身の懸命な修行によってさとりをえようと考えていた独善的な歩みが打ち砕かれ、人と共に生き、阿弥陀と共にある自分であったという気づき、懺悔と讃嘆(反省と感謝)の目覚めが、「愚禿釋親鸞」の名告りとなりました。

不安や混沌(こんとん)

ここ数年、自分の考えや思想のみをより所にし、自分の理解の許容範囲外の人びとを排除する行為が目に余るようになってきました。

悲しみの色合いが濃くなっているように感じます。

つながりを大切にする思いもあれば、少数者・弱者を排除する思いもあります。あたかもそれぞれの人がいるかのように考えてしまいますが、つながりを大切にする者と排除を思想する者、それぞれの人がいるわけではありません。あい反する両方の顔を、誰もが持ち合わせています。

平和を希求しながらも争いが生み出され、排除を思想する者どうしの絆が生まれる。「不安や混沌に覆われた世の中」などと、現代社会の様相をまるで外の景色のように語るけれど、その景色を描いているのは私自身でした。

私の外の景色の、悲しみの色合いが色濃くなってきたのではありません。

私(個)の想いを世界中に表現・拡散しやすくなった世の中にあって、個と個の想いが入り混じりやすくなりました。

その色は、決して心落ち着く穏やかな色ばかりではありません。

そうなるのは、元の個の心根の色が濁っているからではありません。

平和を求める心や、自分が是とする者が集まれば理想的な世界になると想像する心。

その心は、安心を求める心でしょう。

けれど、平和を希求して争いが起こり、理想的な世界を作ろうとして排除が起こる。

個の心根は、決して濁っているわけではない。けれど、個と個が出会って混ざり合えば、必然色は濃く濁ってゆく。

この濁りは、人類通じてのいのちの濁り。

濁りの中にいると、私自身が濁りを作っているということに気づきません。

その気付きを与えてくれるのが、仏教の視座、阿弥陀の眼差し。

阿弥陀の眼差しを、私自身の濁りを知るために、仏法聴聞するのです。

南無阿弥陀仏

 ☆

今月のことばは、田村由美さんが描くミステリー漫画『ミステリと言う勿れ』からの引用です。
主人公の久能整(くのう・ととのう)君は、他人に干渉されることが苦手な大学生。自分のペースで過ごしたいのに、事件に巻き込まれていきます。持ち前の記憶力や観察眼で、目の前で起きている物事の本質を見抜き、事件を解決していきます。
掲示したことばは、整君が大学の先生からかけられたことばです(7巻参照)。誰にでも通じる言葉であると感じました。

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
毎年11月は、親鸞聖人と友だち(朋)
朋が増えてゆきます(^-^)
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