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2020年10月 1日 (木)

2020年10月のことば

2020年 10月を迎えました。
玄関前にあるキンモクセイが薫り始めました。
10月1日は 中秋の名月(十五夜)🌕 月がきれいです💓
サンマも恋しい時期ですが、高値となったサンマ、今年は何度口にできるでしょうか。

 ☆ ☆ ☆

2020年10月のことば

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我慢は、それほど大変ではない。
大変なのは、やせ我慢。

「我慢」している

新型コロナウイルスと共に過ごしてきた2020年も、早や10月を迎えました。さまざまな制約や制限や要請があるなかを、誰もが過ごしています。生活に「我慢」を強いられています。

そう遠くないうちに、新型コロナウイルスも収束するにちがいないという望みがあるから、「我慢」できているのかもしれません。

とはいえ、「我慢」といえば、このコロナが流行していようといなかろうと、誰もが皆それぞれに「我慢」しながら生きてきたのではないでしょうか。

人と人とが関係を築きながら生きています。すべてが自分の思い通りになるわけではありません。自分の思いを押し留めなければならないときもあります。他者(ひと)への心遣い、気配り目配りも大切です。自分の思いを留めているならば、誰もが皆、コロナ以前からある程度の「我慢」をしながら生きてきたのではないでしょうか。生活は、人生は、「我慢」と共にあります。

思うに、「我慢」は、できるからしているのです。無意識のうちに。「我慢」できているかぎりにおいて、それほど大変なことではありません。

けれど、「やせ我慢」は、意識して「我慢」しているのですから大変です。「我慢」していることを、他者に気づかれないように「我慢」し続ける。心身ともに負荷がかかり、疲れてしまいます。「やせ我慢」は、文字通り身も心も痩せ細っていきます。できることならば、自分の心に嘘をつかないで生きたいものです。それもまた難しく、さらに「やせ我慢」の種となるのですが。

大相撲九月場所が終わりました。正代関、優勝おめでとうございます。

大相撲といえば、「やせ我慢」を信念としてきた力士がいます。今年の一月場所限りで引退した大関豪栄道関です。

引退会見で、豪栄道関は、

「やせ我慢というのが心の中にあって、辛いときや苦しいときに、人にそういうところを見せないようにやってきました」と語っていました。

自分の心と向き合い、他者のことを想いながら「やせ我慢」を貫いてきた。そのようにして身体を張って相撲を取っていたのですね。誰にも気づかれないように尽くしていた「やせ我慢」が、人の心に響いていたのかもしれません。

「やせ我慢」は、大変なことです。

本来の「我慢」とは

さて、ここまで、現代使われる意味(「辛抱」や「忍耐」など)での「我慢」について書いてきました。

けれど、「我慢」の本来の意味は、「辛抱」や「忍耐」ではないんです。

「我慢」とは、「我(私)の慢心」ということです。

「私に執着するあまり湧き出てくる、他者を軽視する心」のことを言います。仏教では、「増上慢」「卑下慢」と教えます。

「増上慢(ぞうじょうまん)」
さとりを得てもいないのに、さとったと言い張る心。
うぬぼれの心。
他者よりも上にいると思い込む心。

「卑下慢(ひげまん)」
他者より劣ることは分かっているのだけれど、それを認められない心。
他者に対して、自分より劣るところを見つけ出し、私はましだと言い訳する心。
あるいは、自分を卑下することによって自分の評価を高めようとする心。

「我慢」は、「他者より上にありたいという欲望」、「他者より下にある自分を、より下に誰かを位置付けることによって自分を高めようとする心」を意味します。現代の、いじめや差別の根っこにある心情を言い表しているかのようです。

「我慢」とは、「増上慢」「卑下慢」の心を持った特定の誰かがいる、という話ではありません。誰もが「増上慢」「卑下慢」の心を持っている、という教えです。私は、「我慢」と共にあります。

「平和」や「平等」を願いながらも、平らで和やかで等しい関係を築くことが難しいのは、私が「増上慢」「卑下慢」を持っているからかもしれません。

とはいえ、「我慢」は、元々持ち合わせているものですから、それほど大変なことではありません。

「我慢」を持ち合わせた人と人とが関係を築きながら生きています。そんな娑婆世界(人間世界)は、とても大変な世界ですが。

さて、「やせ我慢」はどのような状態でしょうか。

元々持ち合わせている「我慢」が「やせ」ているのですから、本来の姿ではないのかもしれません。心身ともに負荷がかかり、疲れてしまいます。

「やせ我慢」は、大変なことです。

本来の意味の「我慢」。

「増上慢」「卑下慢」の意味を教えられると、そんな厄介な心は良くない心だ、無くそう 減らそうと思われるかもしれません。

けれど、修行して無くせるものでも、努力して減らせるものでもありません。私と共にある心なのですから。

「増上慢」と「卑下慢」を持った私です。その気づきが大切です。

「やせ我慢」(「我慢」を「やせ」させようとすること)は大変なことです。つまり、私の否定なのですから。

「増上慢」「卑下慢」あるがゆえに、自分の好みで人をえらび、人を嫌い、人を見捨てます。

そのような心を無くそうとするのではなく、そういう心を持ち合わせた私であるという気づき。

その気づきがあるから、誰もえらぶことなく、誰も嫌うことなく、誰も見捨てることのない はたらきに守られながら生きている私であることを感じられます。

その はたらきを阿弥陀といいます。

阿弥陀如来は、誰もえらばず、きらわず、みすてず、慈悲の心で「我慢」の身の私を抱いています。

南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
ミーアキャットとハムスター🐹の人形です。
なぜそのチョイスなのか わかりませんが(^▽^)

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