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2020年10月19日 (月)

合理化ばかりが暮らしやすい生活を生むわけではないし、人生にとって大切な無駄もある

今朝、テレビ番組で「菅総理に望むこと」というテーマで街頭インタビューをした様子を放送していた。

「縦割り行政の打破」「デジタル庁新設」などにふれ、“合理化”や“無駄を省く”ことを望む声が多かったように聞こえた。

確かに、縦割り行政から生じる無駄を省いて合理化を図ることは必要なことだ。

また、税金の無駄遣いを諫める声もあったが、その例えとして出していたのが日本学術会議の年間予算だったのは、正直「そこかなぁ!?」と思った。

日本学術会議の年間予算は10億円余り。

「10億円」という金額だけを聞けば、大きい金額だ。

けれど、日本学術会議に所属する研究者は210名 他に運営上の事務員もいるはずで、その人数から比すると決して高額ではない。

それどころか、日本学術会議のメンバーの研究者は、持ち出しで活動しているとも聞く。

日本学術会議の在り方や活動内容を問う声は出て当然だが、「10億円」という金額にのみ反応しているような気がする。

この10億を無駄使いと言うのであれば、物議をかもしたアベノマスクは466億円が計上されているし、イージスアショアは1787億円の契約を交わし、196億円が支払い済みだそうだ。

河野防衛大臣(当時)がイージスアショアの配備停止を決定して、イージスアショアの配備は断念したのかと思ったが、今度は海上配備の検討を始めているらしい。

「合理化を!」「無駄を省いて!」と要望する割に、大きな金額が動く事案ほど、関心が薄いことが気にかかる。

「合理化」「無駄を省く」は、あたかも必要不可欠なことのように思ってしまうけれど、合理化や無駄を省くという声を聞いて「市町村合併」「規制緩和」を思い出した。

小泉純一郎首相時の「平成の大合併」や「規制緩和」の推進は、何をもたらしただろうか。

結果的にモノを言っても、「今だから言えることだろう」と叱られることだろう。

けれど、地方の活力を奪ってしまった、物作りに代表される地道な仕事が淘汰されてしまった、そういう面は否めないのではないだろうか。

新型コロナウイルスの大流行によって、この一年に満たない期間で、今までの常識は覆され、生活環境に大きな変化をもたらした。

物事は、生活は、システムは、日々動いているものだから変化があって当然だし、避けられるものではない。

しかし、自然な流れのなかでそうなっていくのではなく、

人間の意思(合理化や無駄を省くこと)を目的として、無理を強いて、短期間で変化をもたらすことには、必ず歪(ひずみ)が生じる。

合理化や無駄を省くこと自体は、継続した動きの中で、当然なされてゆくものだと思う。

けれど、それを目的にしてしまうと、何のために、誰のために「合理化」「無駄を省く」をしようとしたのかわからなくなってしまう。

合理化せずにおくことにも理由がある。

無駄こそ生活に必要なときがある。

そういう見方も忘れずに。

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