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2020年10月12日 (月)

「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」随想全文

真宗大谷派では、2023年に「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃(きょうさん)法要」をお迎えします。
親鸞聖人の誕生から850年、念仏の教えをよりどころとして主著『教行信証』を著わされてから約800年を迎えることをご縁としてお勤めする法要です。
慶讃法要テーマ 「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」について綴った随想です(20209月中に12回に亘って綴った文章をまとめました。まとめるに当たり、体裁を整えてあります)。

☆ ☆ ☆

①わたしの居場所

たとえ住む家があっても、共に生活する家族がいても、学校や職場で話をする友がいても、任された務めがあっても、ふと感じることがある。私の居場所はどこだろう? ここが私の居場所だろうか?
現代、多くの人が、居場所を求めている。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、私の口から称える。けれど、私が称えるに先立って、私を呼ぶ声がある。「あなたのことを救います」「あなたのことを思っています」。その呼び声があるから、私は、阿弥陀を想い、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えられる。
「南無阿弥陀仏」と念仏称えることは、私を想っているはたらきがある証(あかし)。
「南無阿弥陀仏」と念仏称えることは、私の居場所はここでいいんだ、ここが私の居場所なんだ、という私という存在を認める声。
悲喜こもごも、どのような境遇の時も、「南無阿弥陀仏」と共にある私。

 

②縦の糸と横の糸

“阿弥陀”とは、アミターユス(無量寿) アミターバ(無量光)

無量寿
私が生まれるには父と母がいて、その父と母にも それぞれ父と母がいる。
私ひとり生まれるために、どれだけの人がいたことだろう。
誰か一人欠けただけで、どこか一組カップルが違うだけで、私は生まれていない。
生涯とは、ひとり一人の生い立ちだけを表わしているのではない。
今まで生きた人、私、これからを生きる人。生涯は、全生命を貫いている。
不思議な(人間の思議を超えた)いのちを生きている。
私へとつながる縦の糸。

無量光
私が生きるには、食べ物を作る人がいて、着る物を作る人がいて・・・
どれだけの人の手を煩わせていることだろう。
その人の苦労がなかったならば、あの人の想いがなかったならば、私は生きていない。
生涯のうちで、直に出会う人びととだけ、私は関係を結んでいるのではない。
実際に出会うことのない人びとと関係を結びながら、今、私はいる。
不思議な(人間の想像を超えた)いのちを生きている。
私を生かす横の糸。

 

③縦の糸と 横の糸の交差する一点を、生きる私

私へとつながる縦の糸
私を生かす横の糸
永い永い縦の糸と 広い広い横の糸が交差する一点一点が、私であり、あなたである。

一点一点は一人一人。けれど、つながっている。
交差する一点を揺さぶると、振動が起きて他の点も揺さぶられる。
交差する一点を掴むと、他の点も引っ張られる。

私の身に起きる出来事は、私だけで完結しているわけではない。
周りの人の想いや行動が、私へと伝わってきたもの。
私が起こした行動は、私だけで収まるわけではない。
周囲の人からより広くの人へと伝わっていく。
この世で起こるすべての出来事。
私には関係ない とは、言い切れない。

私がすること、思うこと。
自己責任で、私の好きにして問題ないでしょ! では、済まされない。
どうして私だけこんな目に遭うのか、
私はこんなに頑張っているのに、
私さえ我慢すれば、
誰にも迷惑はかけていない、
私ひとり・・・の思考に陥るとき、私は、交差する一点であることを忘れている。

 

④悲喜こもごもの人生

インドやネパールに行くと、現地の人から「ナマステ」と挨拶される。
「ナマステ」は、単なる挨拶の言葉ではなくて、
 「あなたに会えてよかった」
 「あなたのことを大切にします」
というような意味が、想いが込められている言葉。
現地の人は、初めて会い、今後会うこともないであろう旅行者にも、「ナマステ」と声をかけてくれる。
 「あなたに出会うために、私は生まれてきました」
 「あなたのことを大切にします」
「ナマステ」と口にしながら、そのような想いが込められている。

南無阿弥陀仏の「南無」は、「ナマステ」の音写。
縦の糸と 横の糸の交差する一点を、生きる私
人と人とは、つながり合いながら、影響し合いながら生きている。
自分にとって、良いこともあれば、悪いこともある。
自分にとって、良いことばかりでなければ、悪いことばかりでもない。
自分では気づかないうちに、他者(ひと)のためになっていることもある。
自分ではまったくそんな気がなくても、他者を傷つけていることもある。
嬉しい出会いも、悲しい出来事も、楽しい活動も、つらい事柄も、
それらすべてが混在している悲喜こもごもの人生を、私は生きている。

「このようなときだからこそ出会える人や、今までにはない気づきがある」
「私の生きているこの人生を、大切に見つめてゆきます」
「南無 阿弥陀仏」に込められている想いを、大切にしてゆきます。

 

➄無限にふれて、有限を知る

「縦の糸」と「横の糸」の表現。
「糸」、あるいは「線」をイメージするとき、そこには始点と終点があります。
けれど、「線」には本来、始点も終点もありません。
いのちの縦糸と横糸に、無始より曠劫まで、始点も終点もありません。

「縦の糸」と「横の糸」で織りなされた、衆生(生きとし生けるもの)という織物。
始点と終点のない糸で織りなされた織物に、際(きわ)はありません。
人間の想像を、想いを超えた 衆生という織物。
悲喜こもごも、さまざまな糸で織られた、色とりどりで際のない織物。

阿弥陀の慈悲にも際がありません。
ここまでは救い、ここからは救わない・・・
念仏称える人を救い、称えない人は救わない・・・なんてことはありません。
衆生はすべて、阿弥陀の救いのなかにある。

衆生を表わす織物
阿弥陀を表わす織物
衆生(生きとし生ける者)の織物と阿弥陀の織物は、別々のものではなく、ひとつの織物でした!
だからこそ、有限ないのちを生きる衆生に、無限な阿弥陀を想い南無できる。
無限な阿弥陀の慈悲にふれて(南無阿弥陀仏と念仏を称えて)、有限ないのちの意味を知る。

 

⑥わたしとあなたとあみだ

親鸞聖人は、「人間」という言葉に、「ひととむまるるをいふ」(人と生まるるをいう)と左訓(さくん…親鸞聖人の了解)されました。
人として生まれるということは、「人間」であるということ。つまり、人と人との、人と他の生命との、人とあらゆる事柄との関係性を生きているということ。

「誕生」と言った場合、個人の誕生をクローズアップしてしまいがちだけれど、「人と生まれる」は、生まれとともに、他(周囲)との関係性が合わせ持たれています。つまり、個の誕生とともに関係性も生まれる。

縦糸と横糸の交差する一点であるわたし。縦糸と横糸でつながっている(人の世を生きる)あなた。
人と生まれるということは、わたしとあなたとの関係を生きるということは、そこにさまざまなことが起こります。
嬉しいことも、悲しいことも。それらとともに、あみだがいるから「南無」と手が合わさる。南無阿弥陀仏

わたしとあなたとあみだ。人と生まれるということは、この三角関係を生きるということ。三つの頂点がある関係は、決してつぶれません。

 

⑦いつでも どこでも 誰でも 一緒に

南無阿弥陀仏の念仏は、「いつでも、どこでも、誰でも」できる。

そういえば、法事の場、聞法の場などで「一緒にお念仏申しましょう」「一緒に三帰依文を拝読しましょう」と、「一緒に」ということを言います。
一緒に・・・

あぁ、念仏は、一緒に称えることができるものです。
念仏は「いつでも、どこでも、誰でも」そして「一緒に」できるものです。
寝ても起きても、嬉しいときも悲しいときも、日本でも海外でも、一人淋しさのなかにあるときでも大勢でにぎやかな場でも、国籍も性別も貧富の差も性に関する思いの相違も思想の違いも宗教の違いも気にせず誰でも、仲がよかろうが悪かろうが、一緒に称えられるのが「南無阿弥陀仏」。

南無阿弥陀仏の普遍性・平等性は、「いつでも、どこでも、誰でも、一緒に」というところにあります。

 

⑧いのち響き合う世界

人の世は、差別が尽きません。けれど、人と生まれた私たちは、平等のいのちを今現に生きています。

生 誰もが、生老病死するいのちを生きています。
老 日々の成長は、老いとも言い換えられます。
病 病は、生きようとしている身体からのサインです。
死 生があるからこそ死があり、死があってこその生です。
そのようないのちを、誰もが皆生きています。

誰もが、誰に代わってもらうことのできないいのちを生きています。
どこの世界を見渡しても、私は、唯だひとり。唯だひとりにして、尊い。
誰もが、阿弥陀の浄土へと往生します。
阿弥陀の救いの対象から外れる者はいません。

生きる姿や境遇はさまざま、ひとり一人が違う生命を生きています。けれど、一人で生きている人はいません。
それぞれの生命を生きながらも、誰もが平等のいのちを生きています。
みんな違うし、みんな同じ。みんな同じだけど、みんな違う。
あなたがいて、わたしがいる。わたしがいるから、あなたがいるのかもしれない。
響き合いながら、この世界を生きています。阿弥陀からの呼び声と共に。

 

⑨人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない

縦糸と横糸の交差する一点が私
誰もが、限りあるいのちを生きている
誰もが、誰にも代わってもらうことのできないいのちを生きている
誰もが、平等のいのちを生きている

このように話すと、人と生まれたことの大切さ、関係性を築きながら生きていることの大切さをうたっているように聞こえるかもしれません。

けれど…

他者との比較のなかで、少しでも秀でた自分を見出そうとするものが人間(わたし)です。

誰もが大切ないのちを生きていることはわかっている。わかっているけれど、自分の子、自分の身内、敬愛する人、親しい友ほど大切に想うのは当然で、誰もが同じです。
自分にとって大切な人を想うとき、そのとき同時に、自分の想いから外れる人びとを生じさせているのもまた人間です。

「ありがたいご縁をいただいています」「人との関係性を大切に」「絆を大事に」などという言葉を耳にします。
けれど、それに頷いて感謝して終わりではなく、言葉の奥にある意味をたずねて生きませんか。

自分にとって“ありがたい”と思えるご縁に出会っているとき、そのあおりで悲しい縁にあっている人がいるかもしれません。
誰かと関係を結ぶとき、そこから外れる人びとを生み出しています。
関係を築けたからと言って、良好の関係のままとは限りません。
“絆”は、人と人との結びつき。手を取り合って協力する仲を意味してもいますが、しがらみを生きていることを表わす言葉でもあります。

平等のいのちを生きる者どうし、どうして争うのか、どうして仲良くいられないのか。
でも、それぞれのいのちと関係を築きながら生きているのですから、仲良くなることも、仲たがいすることも、あって当然です。
瞬間の喜びはあるかもしれませんが、人間の感情はすべて悲しみと共にあります。
悲しみの背景には悲しみがあり、喜びの背景にも悲しみがある。

人間と生まれたことには、悲しみがあります。
人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知らない。

 

⑩人と生まれたことの意味をたずねること それは、わたし個人の生まれた意味を問うことではない

生きる喜びってなんだろう?
どうして生まれてきたんだろう?
なんのために生まれてきたんだろう?
生まれた意味はなんだろう?

そのようなことを問うとき、個人的な「生きる喜び」や「生まれた意味」を想うのではないでしょうか。
けれど、人と生まれるということは、「人間」を生きる、つまり関係を生きることであると、親鸞聖人は確かめられています。その教えに聞くならば、「生きる喜び」や「生まれた意味」は、他者との関係性の見いだしていくものです。
関係性を生きるということは、助け合えるということもあれば、傷つけ合うということもある。傷つけ合うことのない、悲しみのない世の中を願いますが、それは、関係性を生きていること、人間を生きていることから目を背けることでもあります。
人と人との関係だけならば、人と人とが傷つけ合う悲しみに押しつぶされてしまい、人は生きてはいけません。
けれど、阿弥陀がいます。他者(あなた)がいて、わたしがいて、そして、私たちひとり一人に「南無阿弥陀仏」と呼びかける阿弥陀がいます。
阿弥陀の呼び声によって、関係性を生きるゆえに喜びも悲しみも生じさせながら生きている私たちのすがた、「人間であることの悲しみ」が見えてきます。

「人間であることの悲しみ」って何だろう。
人として生まれたことの意味ってなんだろう。
人と生まれたことの意味をたずねながら、わたしは生きています。

 

⑪他力と自力の円環

わたしは、自力を尽くして生きる生き方しかできません。いつまで経っても、生涯を通して、自力を生きることしかできません。真宗の教えを聞いて、自力の生き方から他力(阿弥陀さまの大慈悲心)の生き方へ転換するのではありません。

私が自力を尽くせる背景には、無数のいのちがあります。無数のいのち、縦糸と横糸が絡み合う縁が縁を呼び、その縁に出会って、私は自力を尽くして生きています。「自分の意思・努力・頑張り」と思い込んでいる自力の奥底には、私の思いを超えた、はかり知れない縁があります。つまり、自力と共に他力があります。他力もまた、自力を尽くしている衆生がいるからこそ、他力たり得ているのです。他力と自力は、不離の関係にあります。

「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまからいただいた念仏。他力です。
「人と生まれたことの意味をたずねていこう」とする生き方は、つまり自力です。
「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」というテーマには、他力と共にある自力 自力と共にある他力、他力と自力の円環が表現されています。

 

⑫南無阿弥陀仏はこころに花を咲かせ、その種がまた南無阿弥陀仏を生む

お釈迦さまの説法は、お釈迦さまがいるだけでは生まれませんし、説法たり得ません。
同時代を生きる人びとがいて、お釈迦さまの説法を聞く人がいるからこそ、お釈迦さまの語る内容が説法となります。仏教とは、お釈迦さまと、お釈迦さまの話を聞く人びとがいて成り立ちます。
親鸞聖人も、聖人と同時代を生きる人びとがいてこそ、その教えが生まれ、教えが伝わり、「南無阿弥陀仏」の念仏が人から人へと受け継がれます。

2023年にお迎えする「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃(きょうさん)法要」。この法要は、決して親鸞聖人一個人の誕生を祝う法要ではありません。「宗祖の誕生を祝う」なんて、「教祖さま」「宗祖さま」「〇〇さま」と言って教祖・宗祖を崇め奉る新興宗教のようです。

今、「宗祖」と書きましたが、親鸞聖人自身に「宗祖」としての意識はありません。念仏の教えに出遇う縁をくださった法然上人の教えを、唯だ聞き続ける、唯だ念仏称え続けるという姿勢を貫かれた方です。法然上人の「浄土宗」こそ「真」の教え「浄土真宗」であると語られたのです。その親鸞聖人のお姿を見て、そこに阿弥陀如来を感得された方々が、「浄土真宗の宗祖 親鸞聖人」と見出されたのです。

聖人亡き後750年以上経った今も、念仏の教えにふれることができるのは、親鸞聖人が念仏の教えを綴ってくださったおかげです。念仏の教えにふれ、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える人びとがいることによって、「宗祖」としての「親鸞聖人」が誕生します。

人間親鸞の誕生は、やがて親鸞と念仏の教えとの出遇いへと結びつきます。法然上人と念仏の教えに出会った聖人は、『顕浄土真実教行証文類』をはじめとする念仏の教えを著わします(立教開宗)。そのおかげで、衆生(生きとし生けるすべてのもの)は念仏の教えにふれる縁をいただき、念仏申す者となります。念仏申す私たちがいるからこそ、「宗祖」としての「親鸞聖人」が「誕生」します。宗祖親鸞聖人の「誕生」と「立教開宗」は、ふたつの出来事を一緒にお祝いするということではなく、ひとつの大きな循環(出来事)なのです。その大きな循環のなかに、わたしはいます。

親鸞聖人の教えを聞いた私が、「南無阿弥陀仏」と念仏称える者となる。その姿は、後を生きる人へと受け継がれて往きます。教えを聞いた私の姿が、次のいのちへと伝わる。ここにも大きな循環があります。
「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」は、わたしが “ひとつ” の大きな循環のなかにいることを感得する法要(つどい)。

種から芽が出て花が咲き、その花が枯れてしまっても、種を残し、その種からまた芽が出てきて、花が咲きます・・・

南無阿弥陀仏

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