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2020年10月11日 (日)

分母ばかり大きくなるよりも、整数部分が大きくなる帯分数がいいかなぁ

人は、楽しい事柄よりも悲しい事柄の方が心に刻まれてゆく。

ふしぎなことに、時折思い出すのは、どちらかというと悲しい事柄。

楽しい事柄も、悲しい事柄も、ひとつの事柄として捉えるならば、仮に数字に置き換えたならば “1” に過ぎない。

生きるとともに、多くの人と出会い、多くのことを学び、多くの経験を積む。

多くの・・・が増えるほど、人生の分母は大きくなっていく。

“1” の比重は、分母が大きくなればなるほど小さく、軽く、薄くなっていくはず。

であるならば、古い事柄ほど、生きるとともに埋没し、記憶のかなたに消えてしまいそうだけれど・・・そうではない。

時折思い出すのは、どちらかというと悲しい事柄。

悲しい事柄は、“1” じゃないのかな。

ひとつの事柄として捉えたから“1”という表現になったけど、

でっかい1もあれば、ちっさい1もある。

真っすぐな1もあれば、倒れそうなもある。

横から見れば1に見えるけど、上や下から見れば・に見える。

目に見えるだけの1もあれば、1の下(見えないところ)に深い深い根が張っているかもしれない。

一言で“1”(ひとつの事柄)と言っても、内容や見え方は多種多様。

つまり、生きるとともにどんなに分母が大きくなっていっても、“1”(ひとつの事柄) が単に分子 “1” であるわけではない。

だから、近々の楽しい事柄は一度笑って記憶のかなたへ去りゆき、

あのときの悲しい事柄がいつまでも私と共にある。

悲しみと共に私がいる。

昨晩、寝付けずに また思い出したことがあり、なんで思い出すんだろう・・・と考えたけれど、それもあっての今の私なんだと想う。

分母が大きくなるとともに、分子も大きくなっているのかもしれない。

もしかしたら、分子の“1”ではなくて、整数の“1”なのかもしれない。

楽しいことも悲しいことも、思い返す事柄が多い人生は、帯分数なのかもしれない。

分母ばかりが大きくなる分数は、生きてる間の事柄が、どんどん薄まってしまう。

それならば、帯分数の整数部分が“1”で終わるより、“2”にも“3”にもなっていけば、“生きたなぁ”と思えるかもしれない。

南無阿弥陀仏

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