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2020年10月14日 (水)

なぜ、さるべき業縁がもよおしたならば、いかなるふるまいもするのか

今朝、テレビ番組で「少年法の見直し」について解説をしていました。

現行、18歳 19歳で罪を犯した者が、家庭裁判所から検察官に送致(逆送)して刑事裁判にかけられるのは、殺人を犯した場合に限られています。

しかし、逆送の対象犯罪を殺人だけでなく、強盗や強制性交など拡大する方向へ、また、実名報道できる方向へ、検討が進んでいるそうです。

今日の投稿は、そのことの是非について語るのではありません(実名報道には反対ですが)。

最近は、番組の生放送と同時進行で視聴者からのツイートを受け付け、そのツイートを画面下部で流す番組が増えてきました。

正直、あまり好きな手法ではないのですが、今朝のテレビ番組でも、画面下部にツイートが映っていました。

「少年法見直し」に関して、多くの人が賛成の旨ツイートしていました。

未成年に甘すぎる! 厳罰化を! 個人的には死刑でもいいと思っている! 等々(正確な文言ではないことをお断りしておきます)

朝から、気が重くなりました。

ツイートの多くは、自分を善においてものを語ります。

そのこと自体は、当然のことではありますが、自分を善に置くとともに、他者を悪に位置付けます。

それゆえ、批判的なツイート、他人事なツイート、排他的なツイートが多くなります。

自分の考え方とは違う人の声を聞く。そのことの必要性や大切さは、私もブログで書くことがありますが、自分を抜きにしたツイート(声)は苦手です。

さて、未成年・成人という年齢のことは抜きにして、罪を犯すということは、誰もが起こし得ることです。

「自分は罪を犯さない」「自分は罪を犯すようなことはしない」というところに立つと、罪が生じた背景を見失います。

「そんなものは見たくない」「どんな背景(理由)があろうと、罪を犯した以上、そんなことは関係ない」と思う方もいるでしょう。

あるいは、「被害者の身になってみろ」という声もあります。

確かに、被害を受けた方々のことを思えば、どんな厳罰に処したところで、悲しみが癒えることはありません。

けれど、被害者の立場にない者が「被害者の身になってみろ」と言ったとき、被害者の事を考えているように聞こえはしますが、実際どれだじけ被害を受けた方のことを思っていることでしょう。

そして、罪を犯した者に向けられても仕方のない憎悪が、そこだけに留まらず、罪を犯した者の周囲へも及びます。

そこまでする権利が、当事者ではない私たちに、果たしてあるのでしょうか。

批判的、他人事、排他的なツイート(声)には、実際に犯した罪と同様(同等)の罪が内在するように感じ、画面を見ることが苦しくなってしまいます。

親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第13章)と説かれました。

「そうなるべき縁がもよおせば、いかなるふるまいを するかもわからぬ私です」という教えです。

この教えは、「私も、普段は罪を犯すなんてことは考えられないが、お金に困ったり、空腹になったり、憎い人が出来たら、どんな罪を犯してしまうかわからない」と説いているようにも聞こえますが、そこで留まってしまってはいけないと思います。

「私だって何をするかわからない。(だから、他者を責めてばかりもいられない)」と、あたかも自分事として受け止めてはいますが、「とはいっても、まだ罪を犯していない私」という優位性が籠っているようにも聞こえますし、罪を犯した者を見下す感情が残っています。

親鸞聖人の教え、お釈迦さまの教えの根本は、縁(縁起)です。

縁が紡がれていくなかを生きている私。

そこには、無数の人、動植物、事柄とのつながりがあり、

私の想像の範疇をはるかに超えた生命の営みがあります。

「縁がもよおせば、何をしでかしてしまうかわからない私です」という、自分事のようで実は他人事な受けとめで満足してしまうのではなく、

他人事に感じる出来事も、自分事とまったく関係がない、なんてことはない。

すべてが繋がっている。すべての人びとと関係を結んでいる。

それゆえに、嬉しいことも起これば、悲しいことも起こる。

私が嬉しいときに悲しんでいる人がいる、私が悲しいときに嬉しく思っている人がいる。

あの人が喜んでいるとき、一緒に喜べる私であったり、妬む私であったり・・・。

ひとりの身に起きる事柄は、その人ひとりで完結しているわけではなく、多くの縁のつながりが起こす波に飲み込まれたようなもの。

そこには、多くの人が、動植物が、事柄が伴っている。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という教えは、それほど際限のない教えだと思います。

少年法の改正が、罪を犯した少年個人に向けた処罰の仕方・・・という視点だけで議論されるのではなく、私とつながりを持っている将来ある若者の話、そこには私自身も深くかかわっている。そういうことまで受け止めたうえで、声を挙げられればいいなぁと感じます。

南無阿弥陀仏

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