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2020年9月22日 (火)

同朋

2020年秋彼岸お中日が終わりました。

今日は、真宗の教えに帰依されている ふたりの若人が寺に訪ねてきてくれました。

このコロナ禍、真宗の法座も多くが休止となり、おふたりに会う機会がありませんでした。

久しぶりにお会いできて、嬉しかったです。南無阿弥陀仏

法座にしろ、仕事にしろ、家族とのイベントごとにしろ、今まで当たり前のようにできていたことが、出来なくなりました。

ウイルスに対する嘆き節や恨み節が出そうなところです。

しかし、そのおふたりが言うには、

「現在の状況は、人間が人間の幸福を求めてきた結果です。人間にとって快適な生活を切り拓こうとして、ウイルスを拡散させてしまった。これからは、そのことを忘れずに、ウイルスがある生活をしていかなければいけないんだと思います」

とのこと(もちろん、私も賛同です)。

このような会話を包み隠さずできるのも、法(教え)をいただいているおかげかもしれません。

親鸞聖人の教えにふれていない方の前で、上記のようなことを言うと、

「お前は、人間が悪いっているのか!」

「お前だって、この生活を享受しているじゃないか!」

などと言われてしまいます(別件で、首を絞められながら、上記のように言われたことがあります)。

人間に、私に原因があるなんて思ってもないし、言われたくもないのです。

けれど、ウイルスが拡散した原因は複合的要素なのでしょうが、人間の欲望も大きな原因のひとつであることは、誰もが頷かざるを得ないことと思います。

この縦糸と横糸でつながっている人間の生きざまが、現時点において、新型コロナウイルスに翻弄される形で出ています。

けれど、果たして「翻弄されている」のでしょうか、自ら作った舞台で、自ら舞い踊っているのかもしれません。

現状直視、原因の見極めは、今後に向けて忘れてはいけないことだと思います。

さて、教えにふれると、災いがどこかに行ってしまうのではありません。

教えにふれても、災いは災いとして降りかかってきます。

教えにふれていない人にも ふれている人にも同様に。

けれど、教えにふれている人たちは、今日お寺に訪ねてきてくださった おふたりのように、物事の背景にあることを見る目線・物事を違う角度から見る目線が、自然に身に付いてくるものと思います(決して、聞法したらそうなる、というわけではなくて)。

そして、そういうことって、なかなか他者(ひと)に言えないものですが(私のように首を絞められるかもしれませんが)、聞法した朋(仲間)だと、そういうことで会話(座談)ができます。

達観したものの見方ができるようになるとか、より深い話ができるようになるとか、そういうことを言っているのではありません。

ただ、災い事を他の責任にして自分には責任ないよ、という立場で誰かとお話するのではなく、

「自分も当事者なんだよね」という所に立った者どうしで、お話(座談)ができるようになります。

そういう仲間を、“同朋(どうほう)”と言います。

そのおふたりも、真宗の法座で知り合いました。

それから、朋となり、よくお話をされています。

教えにふれ、共に話をする朋ができる。

降りかかっている災いそのものがどうにかなるわけはありませんが、朋(同朋)がいることの心強さを感じます。

私自身、他者と会う機会が減っているなか、親鸞聖人の教えを縁にして出会えたおふたりとお話ができて、ホッとしました。

楽しい時間でした。

ありがとうございます。

南無阿弥陀仏(‐人‐)

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