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2020年9月16日 (水)

「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」随想⑧

「人と生まれた悲しみを知らないものは 人と生まれた喜びを知らない」

縦糸と横糸の交差する一点が私

誰もが、限りあるいのちを生きている

誰もが、誰にも代わってもらうことのできないいのちを生きている

誰もが、平等のいのちを生きている

このように話すと、人と生まれたことの大切さ、関係性を築きながら生きていることの大切さをうたっているように聞こえるかもしれません。

けれど…

他者との比較のなかで、少しでも秀でた自分を見出そうとするものが人間です。

誰もが大切ないのちを生きていることはわかっている。わかっているけれど、自分の子、自分の身内、敬愛する人、親しい友ほど大切に想うのは当然で、誰もが同じです。
自分にとって大切な人を想うとき、そのとき同時に、自分の想いから外れる人びとを生じさせているのもまた人間です。

「ありがたいご縁をいただいています」「人との関係性を大切に」「絆を大事に」などという言葉を耳にします。
けれど、頷いて終わりではなく、言葉の奥にある意味をたずねて生きませんか。

自分にとって“ありがたい”と思えるご縁に出会っているとき、そのあおりで悲しい縁にあっている人がいるかもしれません。

誰かと関係を結ぶとき、そこから外れる人びとを生み出しています。関係を築いたからと言って、良好のままとは限りません。

“絆”は、人と人との結びつき。手を取り合って協力する仲を意味してもいますが、しがらみを生きていることを表わす言葉でもあります。

平等のいのちを生きる者どうし、どうして争うのか、どうして仲良くいられないのか。
でも、それぞれのいのちと関係を築きながら生きているのですから、仲良くなることも、仲たがいすることも、あって当然です。
瞬間の喜びはあるかもしれませんが、人間の感情はすべて悲しみと共にあります。

人間と生まれたことには、悲しみがあります。
人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知らない。

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