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2020年9月 4日 (金)

ねぎらい の深く広い景色

首相の辞任会見の際、記者が質問する際に、1人しかねぎらいの言葉をかけなかった。

そのことを受け、「お疲れ様くらい言えないのか!」という旨 おかんむりで言った方がいたそうな。

ねぎらいの言葉をかけられるに値するか否かとか、おかんむりの方の言わんとしていることが正しいか否かとか・・・今日の投稿は、そういうことではないことを書きます。

勤め(務め)を果たして、ねぎらいの言葉をかけてほしい、ねぎらいの言葉をかけられると嬉しい、というのは、誰だって そうだと思います。

「ねぎらい」は「労い」と書きます。

「苦労」の「労」です。

つまり、「ごくろうさまです」ということかな。

でも、ねぎらいの言葉のために、「ごくろうさま」のために勤めている(務めている)わけでもない。と思うんです(あ、首相だけじゃなくて、私たちも含めての話)。

ある意味自己満足で、やるべきことに努めているのではないでしょうか。

だから、自分で自分をねぎらうことは とても大事で、とても大切で、とても嬉しいことだと感じます。

本当のところ、自分くらいしか、自分が頑張ってきたことの内容って分からないんだから。

〔私の場合(完全に個人的な話)、ひとりで呑みに行くか、ひとりで映画館に映画を観に行くか、ひとりで羽田空港の展望デッキに行くことが、私から自分へのねぎらい行動です(ひとりが好きなんですね)〕

誰から、ではなく、自分で自分をねぎらうこと、ねぎらうことができるということは、それだけ勤め(務め)を努めたことの表われ。

それに、本当に自分で自分をねぎらうことができるほど努めたのであれば、それは周りの人も感じている。

でも、周りの評価は、待つものでもない。

自分で胸を張れるかどうか。嘘はない、やましい点はない、と言えるかどうか。

それと、

自分で「ごくろうさま」と言えるほど努めたのならば、そこには、自分の周りの人の努力・協力・辛抱・犠牲も、必ず必ずあったはず。

そのことに気づいているか。

そのことに「労い」の気持ちと言葉を持っているか。

自分の勤め(務め)とは、そもそも何だったのかを覚えているか。

(半沢直樹だけでは、問題は解決しない。信念は貫けない。渡真利忍(及川光博)のような友人は貴重だ。)

首相という仕事(首相に限らず、知事や首長、政治家も)は、本当に大変な仕事だと思う。誰だってそんなことは分かっている。

けれど、「お疲れ様くらい言えないものか」発言を聞いて、「この人も言ってもらえなかったのかなぁ(言ってもらいたかったのかなぁ)」と感じた。

皮肉でも同情でもなんでもなくて、「あ、淋しいんだね」って思う。

自分の周りの人の努力・協力・辛抱・犠牲に、気づいていたのかなぁ。

気づいていれば、気づいたうえで勤め(務め)を努めていれば、求めるまでもなく「おつかれさまでした」「ありがとうございました」という声をかけられていたことと想います。

誰よりもまず、自分で自分をねぎらうのが最初です。

「ねぎらう」とは「労う」と書きます。

「苦労」の「労」です。

ねぎらうとは、「ごくろうさま」の言葉だけではありません。

ねぎらう背景にある、自分の苦労だけではなく、周りの人の苦労(周りの人に与えた苦労、周りの人が受けた苦労)を感じることです。知ることです。

ねぎらいの対象は、誰かひとりではありません。

役職の責任が大きくなればなるほど、組織が大きくなればなるほど、多くの人が関わります。多くの「ねぎらい(労)」が生じます。

本当に大変な仕事ほど、「ねぎらい(労)」は大きくて、重たい。

その大きさと重たさを感じること。知ること。

それを見失って「ねぎらい」は、ない。

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