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2020年9月20日 (日)

「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」随想⑪(了・・・のつもり)

お釈迦さまの説法は、お釈迦さまがいるだけでは生まれませんし、説法たり得ません。

同時代を生きる人びとがいて、お釈迦さまの説法を聞く人がいるからこそ、お釈迦さまの語る内容が説法となります。仏教とは、お釈迦さまと、お釈迦さまの話を聞く人びとがいて成り立ちます。

親鸞聖人も、聖人と同時代を生きる人びとがいてこそ、その教えが伝わり、「南無阿弥陀仏」の念仏が人から人へと伝わります。

2023年にお迎えする「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃(きょうさん)法要」。この法要は、決して親鸞聖人一個人の誕生を祝う法要ではありません。「宗祖の誕生を祝う」なんて、「教祖さま」「宗祖さま」「〇〇さま」と言って教祖・宗祖を崇め奉る新興宗教のようです。

今、「宗祖」と書きましたが、親鸞聖人自身に「宗祖」としての意識はありません。念仏の教えに出遇う縁をくださった法然上人の教えを、唯だ聞き続ける、唯だ念仏称え続けるという姿勢を貫かれた方です。法然上人の「浄土宗」こそ「真」の教え、「浄土真宗」であると語られたのです。その親鸞聖人のお姿を見て、そこに阿弥陀如来を感得された方々が、「浄土真宗の宗祖 親鸞聖人」と見出されたのです。

聖人亡き後750年以上経った今も、念仏の教えにふれることができるのは、親鸞聖人が念仏の教えを綴ってくださったおかげです。念仏の教えにふれ、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える人びとがいることによって、「宗祖」としての「親鸞聖人」が誕生します。

人間親鸞の誕生は、やがて親鸞と念仏の教えとの出遇いへと結びつきます。法然上人と念仏の教えに出会った聖人は、『顕浄土真実教行証』をはじめとする念仏の教えを著わします(立教開宗)。そのおかげで、衆生(生きとし生けるすべてのもの)は念仏の教えにふれる縁をいただき、念仏申す者となります。念仏申す私たちがいるからこそ、「宗祖」としての「親鸞聖人」が「誕生」します。宗祖親鸞聖人の「誕生」と「立教開宗」は、ふたつの出来事を一緒にお祝いするということではなく、ひとつの大きな循環(出来事)なのです。その大きな循環のなかに、わたしはいます。

親鸞聖人の教えを聞いた私が、「南無阿弥陀仏」と念仏称える者となる、その姿は、後を生きる人へとつながります。教えを聞いた私の姿が、次のいのちへと伝わる。ここにも大きな循環があります。

「宗祖親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」をお迎えするのは、私自身が“ひとつ”の大きな循環のなかにいることを感じる法要(つどい)です。

種から芽が出て花が咲き、その花が枯れてしまっても、種を残し、その種からまた芽が出てきて、花が咲きます・・・

南無阿弥陀仏

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