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2020年9月19日 (土)

他者の悲しみを自分のこととして受け止めるということは、他者の悲しみを本当には自分のこととして悲しむことができない・・・ということを知ること。

人は、他者との比較の上で、自分を立てようとする。

けれど、比べれば比べるほど、自分には秀でたところなんてないんじゃないか!? という気持ちになる。

他者との比較で、自分の良い点を見いだして、自分を持ち上げようとしていた。

けれど、他者との比較で、自分より悪い点を他者に見いだし(実際に悪い点があるわけではない。他者に対する嫉妬や恐怖心を、他者の欠点としているだけ)、自分を持ち上げている(実際、自分が持ち上がっているわけではない。自分自身は、元の位置のまま)。

他者より良くありたい。

そんな ささやかな願いから始まった 他者との比較。

ささやかな自己肯定から始まった比較心が、やがて差別へとつながっていく。

差別は、悲しみを生む。

差別される側の悲しみは計り知れない。

いわれのない差別なのだから。

そして、差別する側の悲しみもある。

差別せざるを得ない立場に身を置かれているという悲しみではない。

差別される側の悲しみがわからないから、差別を行う。

差別だと指摘されても、差別と理解できない。

とはいえ、指摘されることをとおして、自分のしてきたことを見つめたとき、

他者を傷つけていた自分に気づく。

そのときになって初めて、自分がしたことへの悲しみが生まれる。

けれど、自分がしたことへの悲しみが生まれても、自分が傷つけた相手の悲しみは感じられない。

ごめんなさい。申し訳ないことをした。あなたの悲しみに寄り添います。

そういう気持ちになる人も、いると思う。

けれど、私が傷つけた人の悲しみに寄り添い、私が傷つけた人の悲しみを我が悲しみとして受け止めることは、厳密にはできない。

私のしたこと、私が傷つけた人のことをどんなに想い、悲しみを感じたとしても、

それは、私が傷つけた人の感じている悲しみとは、まったく別物。

目の前の人が悲しんでいる。その悲しみを我がこととして受け止め、共に悲しんでも、悲しみは共有できない。

差別した側の悲しみは、

人を傷つけなければ生きていけない悲しみもあっただろう。

けれど、

傷つけられた人の悲しみ(私が傷つけた人の悲しみ)を、本当にわかった、本当に謝った、本当に自分事として受け止めた、ということができない悲しみがある。

私は理解しました。

私は謝罪しました。

私は、自分の事として受け止めました・・・

とは言い切れない悲しみがある。

他者の悲しみを自分のこととして受け止めるということは、他者の悲しみを本当には自分のこととして悲しむことができない・・・ということを知ること。

そこから、やっと始まる。

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