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2020年9月 1日 (火)

2020年9月のことば

2020年9月を迎えました。

7月、東京は、雨が観測されない日が一日だけだったそうです。それだけ雨が降っていたのに、8月の声を聞くと、とたんに雨が降らなくなりました。境内の地面がカラカラになりました。

8月、東京は、気温30℃を超えなかった日が一日だけだったそうです。それだけ暑かったのに、9月の風にふれると、とたんに気温が下がりました。からだを動かすのがとても楽になりました。

気候も、月が替わると変化する気になるのでしょうか。まぁ、そんなことはないわけですが、9月に入って大きな台風が沖縄を襲っています。9月 10月は、台風にも注意が必要です。被害が出ないことを願うばかりです。ご無事でお過ごしください。

☆ ☆ ☆

2020年9月のことば

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今、大切な人の手に「さわる」ことができない。
だからといって、
相手の心に「ふれる」ことまで諦めてはいけない。

 

相手の心に、「ふれよう」とする

若松英輔さんの著書『弱さのちから』(亜紀書房)を読んでいて、こころに留まる文章がありました。

「触(さわ)る」と「触(ふ)れる」、漢字で書くとあまり違いが分からないが、ひらがなにしてみるとその差異が浮かびあがってくる。
「さわる」という言葉は、何かに触覚的に接触することを指す。もちろん、「ふれる」という言葉にもそうした意味はある。だが、その一方で私たちは 「心にふれる」「心の琴線にふれる」ともいう。
「さわる」が接触的なのに対し、「ふれる」には非接触的な語感がある。むしろ、「ふれる」という表現は、「さわる」ことができないものの存在を感じようとする試みを指すようにさえ感じられる。私たちは、人の声にふれる、とさえいうことがある。
今、私たちは、大切な人の手に「さわる」ことができない。しかし、だからといって相手の心に、あるいは魂に「ふれよう」とすることまで諦めてしまったら、この世界は根底から崩れ去るだろう。

今月の掲示板は、若松英輔さんの想いにふれて書き出しました。

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、人と人との距離を保つ、ソーシャルディスタンシングが提唱されています。会食や移動が制限され、人が集まる場も設定できません。また、介護施設に入所、病院に入院している身内に、「会いたくても会えないんです」という声も聞きます。

手を握る、頭をなでる、ハグする・・・「さわる」行為は、不安な心を落ち着かせてくれます(もちろん、犯罪行為やセクハラはいけません)。「さわる」ことが制限される世の中は、不安な気持ちがどれだけ増幅させられていることでしょう。
けれど、相手に「さわる」ことが叶わないといっても、相手の心に「ふれる」ことはできます。相手のことを慮る。相手の心を察する。相手の気持ちに寄り添う。そのように「ふれる」ことができるのは、相手がいてくれるから。相手の心に「ふれよう」とすることをとおして、実は、私自身の不安な気持ちを落ち着かせているのかもしれません。

相手の心に「ふれよう」とすることまで諦めてしまったとき、この世界は、根底から崩れ去るだろうと綴られています。ということは、私たちが立っている大地は、この世界は、相手の心に「ふれよう」とすることの積み重ねによって成り立っているということを思います。

〔若松英輔(わかまつ・えいすけ)1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。〕

知らない人生を知るということ

この夏、もうひとつ心に留まる文章に出会いました。

あなたの知らないところに
いろいろな人生がある
あなたの人生がかけがえのないように
あなたの知らない人生も
また かけがえがない
人を愛するということは
知らない人生を知るということだ
(灰谷健次郎『ひとりぼっちの動物園』)

私の知らない、いろいろな人生があります。私は、私の人生しか知らないのに(知ったつもりでいるだけなのに)、私の人生を基準・常識にしています。基準に合うものは受け入れ、基準に合わないものは排除する。人を愛するということは、基準に合う者と仲良くすることではありません。人を愛するということは、知らない人生を知るということ。私の知らない、どの人生も、すべてかけがえのないものです。知らない人生を知ろうとすることは、相手の心に「ふれよう」とすること。つまり、人を愛することであると感じられます。

光触かぶるものはみな

とはいえ、人が相手の心に「ふれよう」とすること、愛そうとすることには限界があります。必ず、そこから漏れる誰かを生み出してしまいます。私の人生を基準・常識にした、ものを見る目は、極めて限定的です。

「触」という字を見ていて、親鸞聖人の和讃を思い出しました。

解脱の光輪きわもなし
 光かぶるものはみな
 有無をはなるとのべたまう
 平等覚に帰命せよ
(意訳)
私たちを悩み苦しみから解き放つ光明のはたらきには辺際がありません。この光に触れることができるものは、みな自分の思いを正当化する考えから離れることができるといわれています。平等普遍の智慧をそなえられた阿弥陀如来に帰命しなさい。

「さわる」にしても「ふれる」にしても、自分を主体にして考えてしまいます。私がさわる、私がふれる、と。

けれど、先に書きましたが、相手がいてくれるからこそ、私は相手の手に「さわる」ことができ、相手の心に「ふれる」ことができます。私だけでは「さわる」ことも「ふれる」こともできません。

同様に、私の思いに先立って、阿弥陀如来から慈悲の光明が、すべての衆生(生きとし生けるもの)に向けて解き放たれています。だからこそ、私は、阿弥陀の光明に「ふれる」ことができます。阿弥陀の慈悲の光明は、阿弥陀如来を信じる者、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者だけを対象として解き放たれているのではありません。阿弥陀の眼からすれば、誰もがみな、「かけがえがない」のですから。

私の心に「ふれよう」と願い続ける阿弥陀の慈悲の光明。その光明にふれられながら、私はいます。私の知らない人生を生きる人もまた、阿弥陀の光明にふれられています。南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
秋田の弟が送ってくれた、かわいい人形です。
合掌アニマルというのだそうです(‐人‐)

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