俳優の伊勢谷友介氏が大麻取締法違反の容疑で逮捕されました。
彼の理念で始まった「リバースプロジェクト」に興味があり、俳優業のみならず、それ以外の活動に注目していました。
このように書き出すと、「注目していた人が捕まって、ショックでした」という文章になりそうですが、そのような文章を書く気はありません。
注目していた人、応援していた人、信じていた人が罪を犯すと、「うらぎられた」「そんな人だとは思わなかった」「信じていたのに」というセリフをよく聞きます。
けれど、注目していた、応援していた、信じていたのはこちら側が勝手にしていることですから、それに対して「裏切られた」「そんな人だとは思わなかった」「信じていたのに」というのは、都合のいいセリフです。
注目してた、応援していた、信じていたのならば、これからも その人の活動を見届け、罪を犯したことに怒っているのであらば、自分は同じことをしないようにするようにするとか警鐘を鳴らしていくとか、次の動きへ続いていくことが、注目していた者・応援していた者・信じていた者としての態度ではないでしょうか(確かに、これからも注目し続けていく、応援し続けていく、信じ続けていく、というのは難しいことかもしれませんが)。
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さて、こういうことを書こうとしたのではなく、“依存”の怖さについて書こうと思いました。
大麻にしろ覚醒剤にしろ、手を出した人はなかなか抜け出せません。
芸能人が捕まるとデカデカと時間をかけて報道され、最近ではドラマがお蔵入りになったり、過去の作品の販売が中止されたりしています。
それゆえ、
「一緒に作品を作った人たちに迷惑をかけることになるから、絶対に薬物に手を出してはダメだ」
「信頼・信用のうえに成り立っている仕事なのだから、その信頼や信用をぶち壊すようなことをしてはいけない」
という意見が聞こえます。
けれど、その思いは、薬物に手を出した人自身、或いは薬物ではなくても、法を犯すことをしてしまった人自身、充分わかっているのではないでしょうか。
にもかかわらず、手を出す、法を犯す。
そこに、“依存”の怖さを感じますし、抜け出せない苦しみがあることが察せられます。
やめられたら、楽なんです。
やめられないから辛くて、さらにまた手を出してしまうんです。
抜けられない蟻地獄、延々と続く悪循環のなかに身を置くのが、“依存”なのではないでしょうか。
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受動喫煙防止の対策を盛り込んだ「改正健康増進法」が2020年4月1日から全面施行されました。
飲食店や職場が原則禁煙になるなど、喫煙を出来る場所が絞り込まれました。
国会議員も、喫煙禁止の議員会館で喫煙を続けるなど、タバコを手放せない人が多々います。
私は、タバコを吸いません。
自分の周りでタバコを吸われるよりは吸われない方がいいですが、かといって喫煙者に対して目くじらを立てる気にはなりません。
ひとつ、
タバコによって収められている税収(「一般財源」に入るので、特定の使い道があるわけではありません)の恩恵を、私も受けているはずだから。
もしかしたら、目の前の一本が、インフラを整備しているかもしれない。
であるならば、タバコを嫌悪するのに、整備されたインフラの恩恵を受けるとは?
などということを考えてみると、単にタバコの問題だけでなく、いろいろなことを思考できます。
ふたつ、
この業界、喫煙率高い。
仲間の多くが吸っているから寛大、なんてわけではありませんが、今までそれが(吸っている人がいることが)当たり前だったので、目くじらを立てる気には、現状なっていません。
ちなみに、戒律に厳格なタイお坊さんも、タバコを吸う人はいます。
お釈迦さまの時代にタバコはなかったので戒律で禁止されてはいないのです。
思うのですが、お釈迦さまの時代にタバコがあって戒律で禁止されていたとしたら、喫煙していた者が僧侶になってから、果たして禁煙はできるでしょうか。
難しい戒律の上位に入るのではないでしょうか。
みっつ、
“依存”を抜け出すのは、やはり困難を極めます。
議員会館でタバコを吸っていた議員がいて、「国会議員から守るべきだろう!」という声があがりました。
けれど、タバコを吸っていない人、タバコをやめることができた人が、「タバコをやめろ!」というのは簡単(というと語弊があるけれど)です。
吸い続けている人間が、タバコをやめさせられるわけではないけれど、吸うことが出来る場所に行くまでの労力はかなりのもの。
部屋に自分一人だったら、吸ってしまうでしょう(国会議員に限らず、誰もが)。
さてさて、喫煙者弁護の文章を書こうとしたのではなく、“依存”から抜け出すことの困難を書こうとしました。
大麻や覚せい剤は、法律で所持・使用が認められていないから罰せられるけど、タバコはOK、という線引きが、私には「娑婆世界(人間の世界)の都合だなぁ」って思います。
国によっては、大麻がOKなところもあります。
娯楽・享楽のための大麻・覚醒剤はNGだけど、麻酔等の薬に利用することもあります(その場合は当然OKなわけですが)。
タバコが全面禁止の国は、ないかな?
よその国でOKだから、日本でもOK・・・なんてことはなくて、日本でNGなものをしていたのだから、罰せられるのは当然ですが、
タバコを吸うこと自体はOKだから、「吸ってはいけない場所で吸うな!」程度の注意で終わりますが、
大麻や覚せい剤の場合は、所持・使用していた人の人間性そのものが否定されてしまう。
ここらへんの違いから、
〇やっていない者がやっている者に対して文句を言うことは簡単。だって、自分のことじゃないから。
〇タバコを吸いながら、大麻で捕まった人に対して「馬鹿だよねぇ」「信用なくすよね」と言うことの違和感。
を感じます。
人間誰もが、何かに“依存”して生きています。
タバコや薬かもしれない。
お酒もある。
子どもに依存する親もいれば、親に依存する子どももいる。
誰かを注目すること、応援すること、信じること。
自分の学歴や地位や名誉に依存している人もいるでしょう(執着かな)。
あ、ギャンブルもあった!
“依存”の内容が何であれ、
それに“依存”するに至ったストレスがある。
ストレスを生み出す環境がある。
“依存”から抜け出すことの難しさ、苦しさがある(抜け出さなければいけない“依存”ばかりではないけれど)。
その難しさ、苦しさは、「“依存”している自分に気づいている」から生じる。
“依存”のさなかにいるときは、安心だし、ストレスフリーだし、自分が依存状態にあることをおかしいとは思わない。
「信頼されているうえに成り立っている職業だから、絶対に手を出してはいけない」んだけど、自分がいけないことに手を出している苦しさは、実はもうその人は感じている。
にもかかわらず やめられないから“依存”なんです。
ギャンブルも、コロナ禍のステイホームが言われている時期に、開店前からパチンコ店に並び、パチンコ店に入り浸る人のことが報道されました。
あれも“依存”です。
常識・非常識という話ではないんです。
そういえば、カジノ誘致に奔走した議員も、何度か逮捕されています。
彼の場合は、カジノというギャンブルそのものに依存したのではなく、権力渦巻く世界で、自分の地位を確固たるものにしようとして、地位やお金に執着してしまいました。でも、それもまた“依存”です。
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かたや、議員会館でタバコを吸っていた議員。
かたや、大麻の所持・使用の疑いで逮捕された俳優。
日本では、タバコは、喫煙自体は認められている。
日本では、大麻の所持・使用は認められていない。
認められているとOKで、
認められていないとNGなのか?
(このように書くと、「そりゃそうでしょ!」って話ですね)
突き詰めて考えると、誰もが何かに依存している。
それが、日本でOKなものか、NGなものか。
自分一人で享受するならOKなのか、一人でもNGなのか。
OKかNGかは、国によっても変わる。時代によっても変わる。トップに立つ人間によっても変わる。それに、自分がするか否かでも変わる。
依存する者に対して、単に「いけないね」「バカだね」「やっぱりね」という言葉だけで罵(ののし)って終わるのって、どうなんだろう?と思った。
その風潮・傾向・性格は、人類の歴史上ずっとあるのだろうけれど、最近殊にあからさまで、殊に他罰的なのではないだろうか。
他者を批判することで留飲を下げているのかな。
そうすることで、ホッとしようとしているのかな。
だから、このコロナ禍、新型コロナウイルスに罹患した人への心無いバッシングが目に余るのかな。
他者批判でホッとしようとする態度もまた、“依存”なんだと思う。