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2020年8月 1日 (土)

2020年8月のことば

2020年も8月を迎えました。
「令和2年7月豪雨」はじめ、各地の豪雨で被災された皆様にお見舞い申し上げます。
被災地の一日も早い復旧を念じております。また、体調を崩しやすい折り、被災された皆様も、ボランティア活動をされている皆様も、おからだお大事にお過ごしください。

7月、東京で雨が降らなかったのは19日だけと聞きました。7月中に梅雨が明けることもなく、ジメジメした日々を過ごしていました。お座敷の畳にカビが生えないように換気したり、扇風機回したりしていました。
なんて7月が嘘のように、8月1日はとても暑い日を迎えました。洗濯日和でした。
とはいえ、コロナ禍のため喜んでばかりもいられません。母(長崎)も妻(秋田)も、今年の帰省は諦めています。子どもたちも、今年の夏休みはどこにもいけないことを、頭では理解しているのですが、気持ちでは「どこか行きたいなぁ」という雰囲気が出ています。どこか連れて行ってあげられたらなぁ…。
コロナもあり、気温差も激しく、熱中症も気を付けなくてはならない夏🌞 お気をつけてお過ごしください。

 ☆ ☆ ☆

2020年8月のことば

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恩徳あれば 今、ここ、わたしを 生きている

足下をみつめる

7月に入り、新型コロナウイルス感染者が再び増え始めました。これから先の様子も見通せず、不安や恐怖に覆われてしまいます。誰もが、一日も早い収束を望んでいます。

このような状況に身を置き、ふと思ったことがあります。
先が見通せない現実は、ウイルス騒動があろうとなかろうと変わりありません。誰もが、先の見通せないなかを生きてきました。でも、先が見通せないとはいっても、たとえば春に新入生となったり、新しい仕事に就いたりしたとき、希望やワクワク感を抱いているのではないでしょうか(当然、不安もありますが)。だけど、コロナに関しては不安や恐怖などマイナスの局面ばかりが気持ちを覆います。感染症ですから不安や恐怖に覆われるのは当然のことですが。

「ふと思ったことがあります」というのは、誰もが先の見通せないなかを生きてきました、予定通り・希望通りにはいかない未来を迎えながら生きてきました。そのようななかを既に生きてきたうえで、「今、ここに、わたしが生きている」んだなぁということです。

コロナの収束を願うということは、未来に対する願いです。「今すぐに収束を」という願いも、ちょっと先の未来であることに変わりありません。

いのちは、過去を経ての今を生きています。未来のことは分かりません。私たちは、経てきた今を疎かにして、分からぬ未来に重きを置いて、結果、振り回されてはいないでしょうか。

南無阿弥陀仏をとなうれば

外出自粛期間中のある朝、お朝事(朝の読経)で、親鸞聖人の「現世利益和讃」という和讃を読みました。

南無阿弥陀仏をとなうれば
堅牢地祇は尊敬す
かげとかたちとのごとくにて
よるひるつねにまもるなり

(意訳)

南無阿弥陀仏を称え、生きる人を、
大地の底にまします神々は尊び敬い、
影と形となるものとが不離であるのと同様に、
夜も昼も護り続けてくださいます。

傍らで聞いていた若坊守(妻)から、「お念仏は除災招福のためのものではないのに、親鸞聖人はどうして “南無阿弥陀仏をとなうれば” の和讃をたくさん書いてるの?」と質問を受けました(「南無阿弥陀仏をとなうれば」という言葉の入った和讃は10首あります)。

「南無阿弥陀仏をとなうれば」の響きは、「念仏を称えたならば」、つまり「もし念仏を称えるという条件を満たしたならば」と、条件や仮定の話として聞こえるのではないでしょうか。ですから、南無阿弥陀仏を称えるという条件を満たしてから得られる、念仏のご利益を詠っているかのように聞こえます。でも、そうであるならば、「南無阿弥陀仏をとなえれば」という表記になります。親鸞聖人は「となうれば」と書いています。

「南無阿弥陀仏をとなうれば」は、条件や仮定としての「ば」ではありません。「~してみて、ふりかえってみれば」とか「~するときは、そのようになっている」という、確定の意味を持つ「ば」なのです。

たとえば、「住めば都」という言葉がありますが、「もし住んでみたならば、都(住みやすいところ)となる」という仮定の話ではありません。「住んでみたら都だった」という確定を表わしています。未来の話ではなく、もう既に住んでいる話なのです。

「南無阿弥陀仏をとなうれば」も、もう既に称えている話なのです。

「私は念仏を称えたことないよ」と言う方もいることでしょう。けれど、阿弥陀如来は、すべての生きとし生けるものに向けて、念仏を与えてくださいました、念仏称えるものを救うと誓われました。実際に念仏称えたものを対象とするということではありません。生きとし生けるものすべてが、既に念仏のなかに、阿弥陀の慈悲のなかにいます。

親鸞聖人の説かれる現世利益とは、「お念仏称えたら、こんないいことがあるよ」ということではありません。「念仏称えるご縁をいただいたこと、そのことがご利益です。すでにご利益をいただいているからこそ、念仏称えることができるのです」ということです。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を信じ、ただ念仏申せと説かれましたが、「阿弥陀以外の諸神諸仏は信じるに値しない」と言ったり、私を惑わせる悪鬼を追い払えと言ったりということはありません。それら諸神諸仏、悪鬼もまた、念仏申すご縁をくださった阿弥陀如来に収まるものとみておられました。

さるべき業縁のもよおせば

「ば」について、もうひとつ、親鸞聖人の言葉が思い起こされました。

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

「そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いでもしてしまうのがわたしです」という、『歎異抄』(第13章)に書かれている言葉です。

この「もよおせば」も、「もよおしたならば」と、条件や仮定など、未来のことを語っているように聞こえます。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と耳にしたとき、まだいかなる振舞いもなしていない未来のことだと受け止めがちです。しかし、であるならば「さるべき業縁のもよおさば」という表記になります。

さまざまな縁が重なり合って、今、ここに、わたしが生きている。つまり、今に至るまで私は「さるべき業縁のもよお」して、「いかなるふるまいも」してきたのです。未来ではなく、既に、の話です。

親鸞聖人の言葉は、「よりよい未来のためにどうあるべきか」「理想的な未来のために何をすべきか」を説かれているのではありません。既にご恩をいただいて、「今、ここに、わたしが生きている」ことを語っています。ご恩をいただいてある身であること。その目覚めが、南無阿弥陀仏のご利益です。

 ☆ ☆ ☆

(付記)
と、上記の文章を書きました。
けれど、『歎異抄』の西本願寺蔵蓮如上人書写本は「もよおさば」になっています。
より考察が必要かもしれません。

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
イルカと、クジラと、チンアナゴ (^∀^)
京都水族館に行ったときに、買いました(クジラはダイソーだったかな)。
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